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2012.03/23(Fri)

ダーウィン進化論の精髄(5)

NATROMさんのところに『ダーウィンは「変化に最も対応できる生き物が生き残る」と言ったか?』というタイトルのページがあって、少し気にかかっていました。ちょっと一部転載しておきますね。

(中略)しかし、ダーウィンは「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」ってホントに言ったのでしょうか。環境が一定でないという特殊な条件でしか、変化に対応できる生き物が生き残ると言えないのではないか、と思ってしまいます。力が強いものでもなく頭がよいものでもなく変化に対応できるものでもなく、子をたくさんつくるものがこの世に生き残るのだ、ってのがダーウィンの考えにもっとも近いような気がしますが。

と投稿したのです。投稿しちゃった後で、「もしダーウィンがホントにそう言っていたらみっともないなあ」と思い、確認のため「種の起源」を読み直したのですが、該当する記述を発見できませんでした。


生物学者で実際に「種の起源」を読んだ人はどれくらいかなぁ。千分の一にも満たないかも、と僕なんかは想像している。
現代生物学は「種の起源」を一つの土台にしているけれども、その精髄(自然淘汰原理)を汲み取って、遺伝学なり生態学なりと総合して、いわゆる進化の総合学説として基本理論とされているわけだ。自然淘汰原理についてはダーウィン進化論の精髄(2)で説明しておきました。因みに、ダーウィンの進化関係でオリジナルを読むことを薦めるとしたら「人間の由来」かな(これは面白かったよ)。

さて、『しかし、ダーウィンは「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」』の部分は小泉元総理の演説の一節のようです。

社会ダーウィニズムとヒュームの法則その他で説明したように、自然法則をひとつの「善」として社会に翻訳・適用しようという姿勢に騙されてはいけない、という前提を忘れないでくださいね。そのうえで以下、話をします。

なお、小泉元総理のこの演説における問題点は①ダーウィン学説の誤解(誤用)という側面と、②ヒュームの法則の侵犯という側面の二つがあります。この場合、政治演説なので②の側面のほうがより深刻な問題で、庶民を政治的に誘導するのに使われています。

本題に入ります。

『この世に生き残る生き物は、(中略)変化に対応できる生き物だ』という命題は、(それをダーウィンがいったかどうかはどうでもいいことなのですが、というとNATROMさんには叱られそうですが)、ある一面で、生物学的真実をとらえている、と思います。

生態学に「一般家 generalist」、「専門家 specialist」という学術用語があります。特殊な(狭い)環境に特化したのが後者の生物種で、いろいろな(広い)環境で繁殖可能なのが前者の生物種です。ここでは、生物を種speciesとして扱い、自然淘汰原理では生物を個体レベルでみていることに注意してください。また、相対的な分類であることにも注意する必要があるでしょう。

ある専門家が得意とするある特定の環境では、その専門家はほかのどの専門家や一般家よりも競争力が強い。しかし、その専門家は別の特定の環境では、逆のことがいえる。これに対し、一般家は特定の環境には特化していない分、幅広い環境で繁殖できる。

これを時間系列で言い換えると、専門家は一般家に比べ環境変動にもろい、という結論になります。
専門家も一般家も生物学における学術用語ですよ。

この一般則を地史学的時間スケールで裏付けるデータが↓の論文に載っています。
AH Knoll PNAS (1994) 91:6743-6750
Proterozoic and early Cambrian protists: evidence for accelerating evolutionary tempo
1994 Knoll PNAS

横軸には生物種が誕生してからの時間(百万年単位)を縦軸には種の存続率を対数でプロットしてあります。
なかなか絶滅しにくい種はM1コホートに属するもので17億年から14億年間に誕生したもの、すぐに絶滅しやすいのはC3でこれは約5億年前(つまりカンブリア紀)に誕生したものたちです。N2コホートはこの中間です。

地質年代的に古く誕生した種ほど現在までずっと存続する可能性が高い、ということです。
こうした種ほど、一般家的傾向が強いことは容易に推察できると思います。M1コホートは真核単細胞生物たちです。これよりもっと古い代表がシアノバクテリア(藍色細菌、ラン藻ともいう)で、陸上生物のすべても甚大な恩恵を受けている原核単細胞生物(今の場合、真正細菌)で、どこにでもいるコスモポリタンです。

さて、以上は種レベルでの専門家と一般家の対比です。

これを人間社会における個人の職業にかかわる用語(というか、もともと用語としてはこちらの方が専売だったわけですが)に翻訳し、時間スケールも一生としてみたてたとき、どの程度敷衍可能か、というのは面白いテーマです。
もちろん、善悪は抜きにして社会的現実はどうであるのか(あったか)、ということね。
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テーマ : 科学・医療・心理 - ジャンル : 学問・文化・芸術

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2012.02/14(Tue)

ダーウィン進化論の精髄(4)

今回は自然淘汰に関連して、学術用語と日常語の交錯に、生物学者がどのように寄与しているのか、考えてみたいと思います。
まず、社会事象を記述するのに学術用語(今の場合、自然淘汰)を用いて比喩的に表現する事例。

Googleで、<自然淘汰 site:go.jp>で検索し、らしきものとして最初にヒットしたのが、総合研究大学院大学の学長、集団遺伝学者、高畑尚之教授の「国立大学法人とダーウィンの自然淘汰」(PDFファイル)です。国立大学財務・経営センターとかいう独立行政法人があるようで、そのどこかに掲載されていました。いろいろな行政法人があるものですね。初めて知りました。その理事長豊田長康氏のブログ「ある地方大学元学長のつぼやき」はなかなかに読みごたえがあり、これから勉強させてもらいたいと思っています。

さて、この所感らしき文書の一部を抜粋します。引用文中、赤字の部分は私による強調です。
法人化した国立大学が、それぞれの歴史や地域性を踏まえ、独自の社会的な役割を期待されることに異論はない。しかし、高等教育の在り方に対する明確な国策がないと機能分化によって多様化した国立大学は、ダーウィン的な「自然淘汰」の対象となるだけだ。(中略)
  種内の多様性(変異)には、その種を取り巻く環境からみて次世代を残す上で良いものと悪いものがある。生存競争の結果良いものは保存され、悪いものは捨て去られる傾向にあることを、ダーウィンは自然淘汰と呼んだ。自然淘汰は種内の多様性をふるいにかける。環境が一定のままで自然淘汰が働き続けると、多様性は枯渇しその環境に最適なものだけが生き残る。実際の場合に多様性が枯渇しないのは、突然変異による継続的な供給のためだ。
 国立大学の法人化以降の状況は、このような生物進化のプロセスに酷似してきた。新制大学のもとでは淘汰すべき基準がなかったし、もともと淘汰の対象でもなかった。
国立大学が法人化され、優勝劣敗の篩にかけられるようになったことを表現するのに、自然淘汰原理を引き合いに出すのは、的確な比喩であるとは私は思いません。優勝劣敗が自然淘汰による生物進化に酷似していると彼は述べていますが、酷似することになってしまったのは、彼が自然淘汰概念を通俗的な(世間的に誤解された)内容に近づけて表現したためです。それは、「良いものと悪いもの」という具合に価値観を(恐らく彼の意図ではないでしょうが、多分に筆のすべりとして)織り込ませてしまっている点に端的に表れています。

高名な集団遺伝学者ですから、自然淘汰についてももちろん一級の理解をされているはずですが、このような形で何らかの社会的所感を表明する際に、通俗的表現に妥協してしまっているのだ、と思います。こうした一つ一つの作業を通じて、学術用語の誤解釈が一般のひとびとに普及してしまうのでしょう。

権力による社会ダーウィニズムの喧伝や、売らんかな主義のサイエンスライターによる御解釈の普及に比べると社会的効果は小さいかもしれませんが、専門家の発言は権威付けの側面がありますから侮れません。

これに対し、ドーキンスの利己的遺伝子の場合は、「利己的」という日常用語を学術用語に転用して、一般の人々に混乱を巻き起こしたものと言えます。霊長類学者フランス=ド=ヴァールの言葉を借りると次のようです。なお、訳文は、帯広畜産大学後藤 健教授の「なわばりから群れへ」に記載されているものを引用します。
・・・ドーキンスは彼の比喩は比喩ではなく、本当に遺伝子は利己的なんだ、と弁解し、利己性をどのように定義しようと勝手だ、と言い張った。しかし、彼は、用語を全然異なった分野から借用し、とても狭い意味でそれを使ったのだ。こんなことが許されるのは、二つの意味がどんな時でも交錯しないときに限られるだろう;だが、不運なことに、二つの意味は混合し、このジャンルの幾人かの著者は、「ひとびとが彼ら自身のことを非利己的だなどと言おうものなら、おお!貧しい魂よ!汝は自己欺瞞に陥っているに違いない」とまでほのめかすまでにもなったのである。France De Waal, Good Natured The Origins of Right and Wrong in Humans and Other Animals, 1996 より(訳書あり)
遺伝子が同一ゲノム内の他の遺伝子と生き残りをかけて競争しているか、これは現在のところ想像の域をでないアイディアといっていいでしょう。自然淘汰の対象は個体としての適応度です。ゲノム内の遺伝的組成が調和を保持していない限り適応度は低くならざるを得ないのではないでしょうか:ここで、「調和」は、ゲノムとして適応度を損なわないような遺伝的組成、という意味合いで用いています。

いずれにせよ、自然淘汰の直接の対象が個体である限り、個々の遺伝子は適応度という基準で選抜されざるを得ないのです。つまり、一つの遺伝子を他の遺伝子と切り離した形でその繁栄ポテンシャルを評価することは、とても不自然のように思います;その遺伝子の適応度に対する影響は、他の遺伝子がAであるかBであるか、或いはどの染色体に乗るか、、、、等々のゲノム組成における位置づけによって左右される、と考えるのが自然だと思います。

さて、主題に戻りますが、利己的遺伝子論にはドーキンス自身が人間の遺伝的本性を利己的オンリーと考えている旨の表現があります。生物は確かに本性(つまり生物の遺伝的性質)として増殖しようという特性を持っています。生物の目的 The ENDは増殖です。人間もこの特性をもちろん持っています。しかし、知能をもつ生物であると、もう一つ別格、別次元の目的を持っているのであって、この場合にはそれをPURPOSEと呼ぶのです。知能が構築する目的Puposeは、生物の遺伝的に規定された目的Endとは全く次元を異にしていることに注意してください。

意識の中の「利己」と生命の目的endとしての増殖追求を混同してはいけません。

ドーキンスはこれを(作為的にか?)混同させ、遺伝子という物質に「意志」をもつかのような用語を割り当てたのでした。混乱は避けられません。

以上、両方向への用語の転用を概観してみたのですが、私としてはとても残念に思います。

第一に、誤解を解くために、大学での教育に無駄なエネルギーを割かざるを得ない。
第二に、一般のひとびとが科学的知識を得る上で大きな障害となっている。

生物学の概念には、難しいものは殆どないし、一般の人々にも親近感のあるものが多いだけに、こうした状況はとても憂うべきことだと思います。しかし、以上、二例でみたように、生物学者自身が煙に巻いているという現状を思うと、その改善は絶望的に不可能だといってよいのかもしれません。

テーマ : 教育 - ジャンル : 学校・教育

tag : 自然淘汰 ダーウィン 学術用語 ドーキンス 利己的遺伝子 End Purpose

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2012.02/08(Wed)

ダーウィン進化論の精髄(3)

今回は、科学用語の転用とイデオロギーについて考えます。

科学の場合、科学用語は厳密に定義されなくてはいけません。
自然淘汰という用語も、このシリーズの(1)(2)である程度厳密に定義したつもりです。例えば↓

自然淘汰;適応度の高い個体の子孫が同一種の集団内で分布を広めていく過程

このアイデアを人間社会に誤用したのが社会ダーウィニズムで、これはイデオロギーであって科学ではありません。
私は、社会ダーウィニズムについては学生時代に勉強したきりであり厳密な定義はできません。そこで「自然科学と階級的立場」に掲載されている論考「社会ダーウィニズム考」(林紘義)から一つの定義らしきものを引用します。

社会ダーウィニズムは簡単に言えば、生物界が、ダーウィンの言うように、生存競争と自然淘汰によって進化し、発展するなら、生物の一つである人類もまた同じ法則によって進化するのではないか、というものである。

私は久しぶりにこの論考(2002年)全体に貫かれている濃厚なイデオロギー性に触れ、30年以上も前の学生時代を思い起こして感慨深いものがありました。ただし、私はこのイデオロギーに与しているわけではありません。

この論考を読めば、この著者が「生存競争」と「自然淘汰」という用語を誤用していていることが容易に分かります。もっとも↑の引用文で科学用語を正しく理解した形で読めばこの引用文は基本的には真実なのですが、社会ダーウィニズムの含意するところを勘案すると、この引用文が科学用語を誤用していない限り社会ダーウィニズムを説明できないことになるのです。なお、ダーウィン自身による用語の定義自身にも曖昧性があったことは、ダーウィン理論の理解を巡って(私が学生だった頃でさえ)諸説入り乱れていたことからもわかります。

いずれにせよ、社会ダーウィニズムにおける「生存競争」や「自然淘汰」という用語が弱肉強食とか優勝劣敗などと親近感をもって使われたことは明らかでしょう。

ついでに、三省堂新明解四字熟語辞典から引用します。

自然淘汰 意味
自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること。▽「淘汰」は選び分ける。悪いものを捨て、よいものを取ること。もとダーウィンが進化論の中で説いた語。

適者生存 用例
その過程で適者生存の原則が適用され、強いものが生き残って、自然淘汰とうたが行われていく。<江藤淳・漱石における世紀末>

もうひとつおまけ。徳島大学総合科学部 学部共通科目「科学と人間」のプレゼンテーションのひとつ(PDFファイル)から。

「自然淘汰」は人間社会にも適用されるべきか?

このように、自然淘汰、生存競争、適者生存、等々の科学用語が当たり前のように誤用され、広く市民権を得ております。

この誤用には少なくとも三つの意味があります。

①誤用によって真の自然理解が妨げられていること
②自然法則をイデオロギー的に解釈していること
③自然法則の名を借りて、イデオロギー性を隠蔽したイデオロギーになっていること。

一番目のものは、まぁ愛嬌だ、といって済まされる問題ではあります。ただ、容易に②を媒介として③を導くものでもありますので、やはり改善しなければならないかもしれません。

とはいえ、根本的には問題は②、③の点にあるでしょう。

まず確認しておきたいのですが、
人間といえども自然法則(自然の力)に逆らうことは一つもできない
という点です。

人間の行為はすべて人為ですが、自然法則に従わない限り何もできません。これに対し、人間活動の結果、ご存知のように、自然は大きく改変されました。言い換えると、
人間は自然法則(自然の力)(法則性)にしたがって自然の流れを変えている
のです。

この自然の流れなら、人間社会の歴史を含め、ある程度意図的に方向付けることはできます。
しかし、絶対に自然法則には逆らえません。

さて、②自然法則(自然の力)(価値的に中立)をイデオロギー的に解釈し、自然法則を価値観(多くはそれを”善”とする)のように見立てることの本質はどこにあるのでしょうか?

自然法則をイデオロギー的に解釈して、ある特定の価値を付与、注入した時点で、「自然法則」なるものは、擬似自然法則(今の場合、自然法則を装ったイデオロギー)に変質しています。イデオロギーではないとみせかけたイデオロギーにほかなりません(③)。イデオロギーの隠蔽ですね。この隠蔽が可能なのは、社会ダーウィニズムで明らかなように、科学用語のイデオロギー的誤用に基づいています。

「生存競争(誤用)による自然淘汰(誤用)」(疑似自然法則:社会ダーウィニズム)にしたがうことが善だ。

或いは、社会ダーウィニズムに親近感のある基本態度と言うのは②ではなく、
④自然の流れに任せること(人為を排除すること)を善とするイデオロギー(つまり、これも人為なのですが)
である、という観点も成立します。

「生存競争」による「適者生存」、「優勝劣敗」の「弱肉強食」という「自然淘汰」を自然界の流れ、と見なし、この流れに人間社会も従おう、というイデオロギーが社会ダーウィニズムです。ただし、この場合の自然界の流れは嘘の流れになっています。

まぁ、イデオロギーなので、とやかく言ってもしょうがないと言えば言えるのですが、明らかに論理矛盾を犯していますね?
なぜなら、人間活動のすべてが「人為」だからです。数ある選択枝の中から、どの選択枝を実現させるか、、、その一つが「何も介入しない」という原理なのです。何も介入しないという介入、と言ってもいいかもしれませんね。例えば、トキは放っておけば絶滅するのが自然の流れなのだから、それに任すのが善、保護しようとするのは悪、といった感じです。

当たり前のことを何度も言いますが、人間活動は選択枝のうち一つを選ぶという行為なのです。大切なことは、その際の選択基準に一貫性を持たせる(ダブルスタンダードは変節行為)という点です。

「何も介入しない」という原則を善とするならば、そのイデオローグは医療介入も否定しなければなりません(筋を通せば、ですが)。その場合、近代人であれば、早々にお亡くなりになっている可能性が大きいですから、筋は通してこなかった、という推論が成り立ちます。もっとも、近代人の中にも、まれに、生れ落ちるときから、産婆にも医者にもかからなかった人はいるかもしれません。でも農業の興隆による恩恵(良好な栄養状態)という「人為介入」から免れていることはありえないでしょう。

さて、自然淘汰に戻ります。
科学的用語の正しい意味における自然淘汰に対して、人間のできることは適応度を変えることです。
このシリーズ(2)で適応度:所与の環境で、次代に残す繁殖可能な子孫数の遺伝的期待値、と定義しました。
このうち、人間活動によって変わりうるのは「所与の環境」と、個々人の遺伝的組成でしょう。

前者については、例えば、西洋的医療の介入強化、という形で現実に行われています。僕なんかが今も生きていられるのはそのおかげだな。

後者については、遺伝子工学など生物工学を通じた(生殖細胞の)遺伝的組成の人工的改変を想定しています。スーパー人間の遺伝的組成はどのようなものでしょうか(才色兼備、無病息災???)。そうした生物工学は近未来において不可能とは言えません。もちろん、そうした行為が行われてよいかどうかは、社会的な判断によって決めなければなりません。

ただし、こうした人為は技術的介入なので、自然淘汰というより人為淘汰の領域ですね。

したがって、これまでのところ、人間社会は、所与の環境(=適応度を規定する要因)を改変することによって、人間集団内部の遺伝的組成を(非意図的にせよ)変えてきた、と考えることが出来ます。自然淘汰という力そのものに逆らっているわけではなく、それに従いつつも、自然の流れ(進化方向)を変えてきたのです。近代医療の介入や豊富な食料供給がなければ(程度の差はあれ)遺伝的には生きていけない人間でも生きていけるのが現代日本社会だと思います。

テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 社会ダーウィニズム イデオロギー 自然淘汰 ダーウィン 適者生存 適応度

14:44  |  進化の機構  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
2012.02/06(Mon)

ダーウィン進化論の精髄(2)

生物進化とは、その生物が所属する集団(種個体群)の遺伝的組成が変化することです。

この集団に、a遺伝子をもつものたちとその変異型のa’遺伝子をもつものたちがいるとします。両者の個体数比率が時間とともに変わっていけば集団の遺伝的組成は変化(つまり進化)したことになります

この集団が「適応的」に進化(=変化)していく上で作用する自然法則を自然淘汰 natural selection と呼びます。

<集団が「適応的」に進化していく>とは、所与の環境に対してよりよく「適応」した個体の割合が増えていくことを指しています。

では、適応(的)adaptation (adaptive) とはなんでしょうか?

個々の部分的な生命機能も適応的に働いておりますが(例えば、ヒトの悪知恵能力)、そうした部分反応を統合した生物個体としての総合的な適応の度合いが進化的には重要です。その度合いは繁殖力で決まります。
そこで、適応度(=繁殖成功度)という概念を定義します。

適応度: 所与の環境で、次代に残す繁殖可能な子孫数の遺伝的期待値

適応度の高い個体ほど、所与の環境により適応している、と生物学では考えます。

この定義からわかることに次のような事柄があります。
①適応度は生物個体の遺伝的組成(つまりゲノム内容)で決まります
②(言い換えると)適応度は現実に残す繁殖可能な子孫数ではなく、その遺伝的組成から期待される繁殖可能な子孫数の予想値です
ここは補足説明がいるかもしれません。
現実に子孫を残すかどうかは偶然によっても左右されます:例えば飛行機事故
しかし、この偶然性は、集団(種個体群)内のすべての個体に対して等しい確率で起こります
このため、どのような遺伝的組成が集団内に広がっていくかにこの偶然性は全く寄与しないことになるわけです
③(蛇足ですが)子孫の中には繁殖可能なものも不可能なものもありますが、適応度にカウントされるのは繁殖可能な子孫だけです
④ある環境で適応度が高かったとしても、その環境が変化すれば適応度を下げる可能性があります

適者生存という時の適者とは適応度の高い個体を指し、生存とは単なる現在的な生存ではなく後代の生存を表しています。

適応度の定義から明らかなように、一つの生物集団(種個体群)の内部では適応度の高い個体の子孫が数的に優先していきます。この過程(プロセス)が、自然淘汰による生物進化です。

人為淘汰の場合、育種家が、その基準(主観、目的)に適う個体だけを選抜し、残していきます。
自然淘汰の場合、選抜基準は適応度です。では、育種家の代わりに選抜する(手を下す)主体はなにものでしょうか?

これはちょっと難問ですね。

この場合、あえて主体を考えず、自然淘汰の「自然」は、ひとりでに(とか、放っておけば)、という意味の自然(じねん)なのだ、ととらえるのが一番簡単であるように思います。自然淘汰(しぜんとうた)とは適者をひとりでに選抜する自然のメカニズム、あるいは自然力(自然作用)である、と。

これは、覆水盆に返らず、と同程度に人間にとって自明な法則(のうち、経験則)です。
あるいは、論理的には否定できない法則でもあります。

もう一歩踏み込んで、人為淘汰における育種家の役割に準えられる主体が自然淘汰ではなにものに相当するのか、考えて見ましょう。

結論的にいうと、それは生物個体をとりまく「所与の環境」でしょう。
「所与の環境」は生物個体にとっては外在的で無慈悲な(容赦のない)存在です。
ここで「無慈悲な(容赦のない)」というのは、ある遺伝的組成をもつ個体の適応度の大小は「所与の環境」が一義的に、しかも外的に、決めるからです。

ここで、生物も環境を改変する力をもっているではないか、だから環境は生物にとって単なる外在的な存在ではないのではないか、という反論があってもよいでしょう。

確かに、大気酸素やオゾン層、あるいは土壌の形成のように、生物は生態系の一員として環境を歴史的に改変する作用をもちます。しかし、自然淘汰を受ける一つ一つの生物個体にとって、自分自身の生命活動は生物全体の地球改変作用に比べ無視しうるレベルに微小、無力なものです。

自然淘汰の働く時間スケールは一世代という短さで、これと大掛かりな環境改変作用の歴史的時間スケールとは比べ物になりません。

また、より重要な点ですが、生物が一世代という短い時間スケールで何がしかの環境改変作用を行い、それによって適応度を変化させるようなレベルにまで環境が変わったとしても、ある遺伝的組成をもつ個体の適応度の大小を規定するのは、その変化した環境の方であることに変わりはないのです。

もちろん、その環境変化が特定の遺伝的組成を持った一団によって主に行われ、その一団に有利に働く、という場合も想定できます(実例を私は知りませんが)。しかし、その場合でも、環境改変作用は無目的に(つまり、生命活動の副産物として)行われているわけで、決して適応度を上げることを目的として行われるわけではありません。この意味で、やはり、ある生物の適応度を一義的に決めるのは、環境以外にありません。

以上、自然淘汰という自然作用(自然力)について二通りの考え方を述べてみました。いずれにせよ、上の説明で明らかになったと思いますが、自然淘汰による生物進化は、ラマルクが仮定したような生物の内在的な(神秘的な)力の助けを借りずに合理的なメカニズムによって説明できるのです。

実を言うと、私自身、学生時代、ラマルクの亡霊にとらわれていた時期があります。
突然変異は基本的に有害なのに、どうして生物は歴史とともに複雑な体制に進化したのか、どうして新しい機能を獲得できたのか、この謎をダーウィン進化論だけでは説明できなかったからです。

しかし、この謎を解く原理を説明した一冊の書物に触れ、1980年前後ようやくその亡霊から脱け出したのでした。またの機会に述べてみたいと思います。

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tag : ダーウィン 自然淘汰 適応度 適者生存

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2012.02/05(Sun)

ダーウィン進化論の精髄

およそほとんどすべての人が知的好奇心を駆り立てられる問題の一つが生物進化の謎だ。
私は進化生物学の専門家ではないが、一般教養の範囲で話をしていきたい。

予め断っておきたいのだが、どのような自然科学もその科学用語にはいかなる意味でも人間的な価値概念を含んでいない、ということだ。
生物進化≠進歩、生物進化≠退歩

パソコンの進化とか扇風機の進化とか、テクノロジーの進歩を表すのに進化という学術用語が転用されて。、、単なる進歩よりも心地よい?響きを持たせるために使われている、のかな?しかし、学術用語としての進化という言葉には、進歩という価値概念は一切含まれていないことに注意してください。

生物学的には、したがって、人間はサルより高等でも何でもありません。
そもそも高等という用語には人間的価値が含まれているでしょう?

人間的価値を基準にとれば、特に中世キリスト教的な価値観からすれば、人間が高等である、というのは当たり前と言うか、最初から結論ありき、ですね。トートロジーです。

さて、今回、進化論にまつわりどんな誤解があるのかネットで探索してみました。
ブログ生物史から、自然の摂理を読み解くで紹介されていたのですが、とても面白いので、その一節を引用します。

この進化モデルは、環境に対する生物自身の能動的(主体的)な適応(本能)を一切排す点で運命論的である。

そして、「自然選択(自然淘汰)」を「自分ではどうすることもできない(自然)環境※」に、「有利な突然変異」を「奇跡的に生ずる変身(変態)」と置き換えると、これは古代の宗教思想そのものではないのか、という疑問が生まれる。

何のことはない、主流進化論とは、「奇跡的な(神の)救いが無ければ、生物は滅びゆくしかない」という、私権時代の閉塞が生み出した古代宗教思想の追認作業、つまり神の証明をしようとしているだけではないのか。

ダーウィン進化論の神髄は、生物進化の機構を神の手を借りることなく合理的に説明できることにあります。

生物は自然淘汰(自然選択)という自然の作用の前には、いかなる能動性(主体性、意思)もありません。それを、↑の一文を表した人が「運命論的」だと揶揄しようと、それは単にその論者の主観(価値観)を表明しているだけのものに過ぎません。

ラマルクは「前進的進化」を唱えたことからわかるように、生物自身に「高等」になるような内在的な力を仮定しています。この意味で彼は中世キリスト教的なイデオロギーの虜になっていたものと思われます:ラマルク進化論は科学にはなれない。

ところで、生物には増殖しようとする内在的で無意識的な能力があります。このため、「(神の)救いがなければ、生物は滅びゆくしかない」ということは起こりません。ダーウィンが自然淘汰原理の着想を得ることになった重要な生物原則の一つは、そもそも、生物は増えようとしている、ということだったのです。増えようとしているのに、どうして子孫の数は親の数にほぼ等しいのか?

たくさん生まれたこどもたちのうち、その環境に最も適応しているものだけが次代の親になれる。これが自然淘汰原理のきわめて粗っぽい表現です。こどもたちどうしで、いわゆる弱肉強食の闘争(血なまぐさい喧嘩)をするわけではありません。ある場合には、天敵から逃れる術に長けたものであったかもしれない。ある場合には、限られた資源の中で効率的に繁殖する能力をもったものだったかもしれない。で、そうした適応力において総合的に高いものたちは、低いものに比べて繁殖力が高い。つまり子孫を残しやすいのです。この能力の高低はどのようにして生まれるのか、は別の機会に話します。

念のために繰り返しますが、生物は環境に対して反射応答するだけの受動的な存在ではありません。
動物であれ植物であれプランクトンであれ、情報処理応答回路をもつという意味において「能動的に」反応する主体です。
しかし、どのような生物も、どのような進化の運命をたどるかという歴史的次元においては、自然の力の前に全く無力なのです。

それとも、自然の力、人間の意志ではどうしようも動かせない客体の存在を認めたくないだけですか?

寝る時間を大幅に過ぎたので今回はひとまずここで中断します。

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tag : ダーウィン 自然淘汰 価値観

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