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2012.02/06(Mon)

ダーウィン進化論の精髄(2)

生物進化とは、その生物が所属する集団(種個体群)の遺伝的組成が変化することです。

この集団に、a遺伝子をもつものたちとその変異型のa’遺伝子をもつものたちがいるとします。両者の個体数比率が時間とともに変わっていけば集団の遺伝的組成は変化(つまり進化)したことになります

この集団が「適応的」に進化(=変化)していく上で作用する自然法則を自然淘汰 natural selection と呼びます。

<集団が「適応的」に進化していく>とは、所与の環境に対してよりよく「適応」した個体の割合が増えていくことを指しています。

では、適応(的)adaptation (adaptive) とはなんでしょうか?

個々の部分的な生命機能も適応的に働いておりますが(例えば、ヒトの悪知恵能力)、そうした部分反応を統合した生物個体としての総合的な適応の度合いが進化的には重要です。その度合いは繁殖力で決まります。
そこで、適応度(=繁殖成功度)という概念を定義します。

適応度: 所与の環境で、次代に残す繁殖可能な子孫数の遺伝的期待値

適応度の高い個体ほど、所与の環境により適応している、と生物学では考えます。

この定義からわかることに次のような事柄があります。
①適応度は生物個体の遺伝的組成(つまりゲノム内容)で決まります
②(言い換えると)適応度は現実に残す繁殖可能な子孫数ではなく、その遺伝的組成から期待される繁殖可能な子孫数の予想値です
ここは補足説明がいるかもしれません。
現実に子孫を残すかどうかは偶然によっても左右されます:例えば飛行機事故
しかし、この偶然性は、集団(種個体群)内のすべての個体に対して等しい確率で起こります
このため、どのような遺伝的組成が集団内に広がっていくかにこの偶然性は全く寄与しないことになるわけです
③(蛇足ですが)子孫の中には繁殖可能なものも不可能なものもありますが、適応度にカウントされるのは繁殖可能な子孫だけです
④ある環境で適応度が高かったとしても、その環境が変化すれば適応度を下げる可能性があります

適者生存という時の適者とは適応度の高い個体を指し、生存とは単なる現在的な生存ではなく後代の生存を表しています。

適応度の定義から明らかなように、一つの生物集団(種個体群)の内部では適応度の高い個体の子孫が数的に優先していきます。この過程(プロセス)が、自然淘汰による生物進化です。

人為淘汰の場合、育種家が、その基準(主観、目的)に適う個体だけを選抜し、残していきます。
自然淘汰の場合、選抜基準は適応度です。では、育種家の代わりに選抜する(手を下す)主体はなにものでしょうか?

これはちょっと難問ですね。

この場合、あえて主体を考えず、自然淘汰の「自然」は、ひとりでに(とか、放っておけば)、という意味の自然(じねん)なのだ、ととらえるのが一番簡単であるように思います。自然淘汰(しぜんとうた)とは適者をひとりでに選抜する自然のメカニズム、あるいは自然力(自然作用)である、と。

これは、覆水盆に返らず、と同程度に人間にとって自明な法則(のうち、経験則)です。
あるいは、論理的には否定できない法則でもあります。

もう一歩踏み込んで、人為淘汰における育種家の役割に準えられる主体が自然淘汰ではなにものに相当するのか、考えて見ましょう。

結論的にいうと、それは生物個体をとりまく「所与の環境」でしょう。
「所与の環境」は生物個体にとっては外在的で無慈悲な(容赦のない)存在です。
ここで「無慈悲な(容赦のない)」というのは、ある遺伝的組成をもつ個体の適応度の大小は「所与の環境」が一義的に、しかも外的に、決めるからです。

ここで、生物も環境を改変する力をもっているではないか、だから環境は生物にとって単なる外在的な存在ではないのではないか、という反論があってもよいでしょう。

確かに、大気酸素やオゾン層、あるいは土壌の形成のように、生物は生態系の一員として環境を歴史的に改変する作用をもちます。しかし、自然淘汰を受ける一つ一つの生物個体にとって、自分自身の生命活動は生物全体の地球改変作用に比べ無視しうるレベルに微小、無力なものです。

自然淘汰の働く時間スケールは一世代という短さで、これと大掛かりな環境改変作用の歴史的時間スケールとは比べ物になりません。

また、より重要な点ですが、生物が一世代という短い時間スケールで何がしかの環境改変作用を行い、それによって適応度を変化させるようなレベルにまで環境が変わったとしても、ある遺伝的組成をもつ個体の適応度の大小を規定するのは、その変化した環境の方であることに変わりはないのです。

もちろん、その環境変化が特定の遺伝的組成を持った一団によって主に行われ、その一団に有利に働く、という場合も想定できます(実例を私は知りませんが)。しかし、その場合でも、環境改変作用は無目的に(つまり、生命活動の副産物として)行われているわけで、決して適応度を上げることを目的として行われるわけではありません。この意味で、やはり、ある生物の適応度を一義的に決めるのは、環境以外にありません。

以上、自然淘汰という自然作用(自然力)について二通りの考え方を述べてみました。いずれにせよ、上の説明で明らかになったと思いますが、自然淘汰による生物進化は、ラマルクが仮定したような生物の内在的な(神秘的な)力の助けを借りずに合理的なメカニズムによって説明できるのです。

実を言うと、私自身、学生時代、ラマルクの亡霊にとらわれていた時期があります。
突然変異は基本的に有害なのに、どうして生物は歴史とともに複雑な体制に進化したのか、どうして新しい機能を獲得できたのか、この謎をダーウィン進化論だけでは説明できなかったからです。

しかし、この謎を解く原理を説明した一冊の書物に触れ、1980年前後ようやくその亡霊から脱け出したのでした。またの機会に述べてみたいと思います。
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テーマ : 自然科学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : ダーウィン 自然淘汰 適応度 適者生存

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