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2012.03/23(Fri)

ダーウィン進化論の精髄(5)

NATROMさんのところに『ダーウィンは「変化に最も対応できる生き物が生き残る」と言ったか?』というタイトルのページがあって、少し気にかかっていました。ちょっと一部転載しておきますね。

(中略)しかし、ダーウィンは「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」ってホントに言ったのでしょうか。環境が一定でないという特殊な条件でしか、変化に対応できる生き物が生き残ると言えないのではないか、と思ってしまいます。力が強いものでもなく頭がよいものでもなく変化に対応できるものでもなく、子をたくさんつくるものがこの世に生き残るのだ、ってのがダーウィンの考えにもっとも近いような気がしますが。

と投稿したのです。投稿しちゃった後で、「もしダーウィンがホントにそう言っていたらみっともないなあ」と思い、確認のため「種の起源」を読み直したのですが、該当する記述を発見できませんでした。


生物学者で実際に「種の起源」を読んだ人はどれくらいかなぁ。千分の一にも満たないかも、と僕なんかは想像している。
現代生物学は「種の起源」を一つの土台にしているけれども、その精髄(自然淘汰原理)を汲み取って、遺伝学なり生態学なりと総合して、いわゆる進化の総合学説として基本理論とされているわけだ。自然淘汰原理についてはダーウィン進化論の精髄(2)で説明しておきました。因みに、ダーウィンの進化関係でオリジナルを読むことを薦めるとしたら「人間の由来」かな(これは面白かったよ)。

さて、『しかし、ダーウィンは「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか。そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」』の部分は小泉元総理の演説の一節のようです。

社会ダーウィニズムとヒュームの法則その他で説明したように、自然法則をひとつの「善」として社会に翻訳・適用しようという姿勢に騙されてはいけない、という前提を忘れないでくださいね。そのうえで以下、話をします。

なお、小泉元総理のこの演説における問題点は①ダーウィン学説の誤解(誤用)という側面と、②ヒュームの法則の侵犯という側面の二つがあります。この場合、政治演説なので②の側面のほうがより深刻な問題で、庶民を政治的に誘導するのに使われています。

本題に入ります。

『この世に生き残る生き物は、(中略)変化に対応できる生き物だ』という命題は、(それをダーウィンがいったかどうかはどうでもいいことなのですが、というとNATROMさんには叱られそうですが)、ある一面で、生物学的真実をとらえている、と思います。

生態学に「一般家 generalist」、「専門家 specialist」という学術用語があります。特殊な(狭い)環境に特化したのが後者の生物種で、いろいろな(広い)環境で繁殖可能なのが前者の生物種です。ここでは、生物を種speciesとして扱い、自然淘汰原理では生物を個体レベルでみていることに注意してください。また、相対的な分類であることにも注意する必要があるでしょう。

ある専門家が得意とするある特定の環境では、その専門家はほかのどの専門家や一般家よりも競争力が強い。しかし、その専門家は別の特定の環境では、逆のことがいえる。これに対し、一般家は特定の環境には特化していない分、幅広い環境で繁殖できる。

これを時間系列で言い換えると、専門家は一般家に比べ環境変動にもろい、という結論になります。
専門家も一般家も生物学における学術用語ですよ。

この一般則を地史学的時間スケールで裏付けるデータが↓の論文に載っています。
AH Knoll PNAS (1994) 91:6743-6750
Proterozoic and early Cambrian protists: evidence for accelerating evolutionary tempo
1994 Knoll PNAS

横軸には生物種が誕生してからの時間(百万年単位)を縦軸には種の存続率を対数でプロットしてあります。
なかなか絶滅しにくい種はM1コホートに属するもので17億年から14億年間に誕生したもの、すぐに絶滅しやすいのはC3でこれは約5億年前(つまりカンブリア紀)に誕生したものたちです。N2コホートはこの中間です。

地質年代的に古く誕生した種ほど現在までずっと存続する可能性が高い、ということです。
こうした種ほど、一般家的傾向が強いことは容易に推察できると思います。M1コホートは真核単細胞生物たちです。これよりもっと古い代表がシアノバクテリア(藍色細菌、ラン藻ともいう)で、陸上生物のすべても甚大な恩恵を受けている原核単細胞生物(今の場合、真正細菌)で、どこにでもいるコスモポリタンです。

さて、以上は種レベルでの専門家と一般家の対比です。

これを人間社会における個人の職業にかかわる用語(というか、もともと用語としてはこちらの方が専売だったわけですが)に翻訳し、時間スケールも一生としてみたてたとき、どの程度敷衍可能か、というのは面白いテーマです。
もちろん、善悪は抜きにして社会的現実はどうであるのか(あったか)、ということね。
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16:48  |  進化の機構  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
2012.03/23(Fri)

禁煙キャンペーンの謎 日本パラドックス(9)

このシリーズの(2)(4)でも話題にしたけれど喫煙者が国民医療費のお荷物になっているという話。立派な学術論文の題材にもなっているようなので、びっくりしたよ。

Hayashida, Imanaka, et al. Health Policy 94 (2010) 84–89.
Difference in lifetime medical expenditures between male smokers and non-smokers

の「結論」を和訳しておく。責任著者は京大医学部 今中雄一教授(医療経済学)。

喫煙は生涯医療費を増加させない可能性がある。喫煙者は非喫煙者に比べ生涯医療費が低いからだ。
しかし、喫煙者、特に生存者は非喫煙者に比べ年間医療費が高いことがしばしばある、ということは明らかだ。
タバコ規制の重要性は依然として意義のあることだ。


何か笑えちゃう結論だね。

喫煙者の生涯医療費が非喫煙者より低いならば、喫煙を奨励すれべいいのに、ね
試算と最終結論が矛盾しちゃってます:国民医療費の総額を減らしたいんじゃなかったのかな?

この矛盾を好意的に解釈すると、禁煙キャンペーンを張る厚労省の科研費の援助を受けた研究だから、厚労省には不満な試算結果を覆い隠すための「しかし」や「最終結論」なのかな、ということだね。面従腹背ってやつ?

もう一つの解釈は、国民の健康こそ大切だ。したがって、(禁煙効果によって)国民医療費の負担がどれだけ大きくなろうと、禁煙を薦めるべきだ、というのかな?まぁ、それなら、この研究をすることの意味も初めからないわけで。

いずれにしろ、『タバコ規制の重要性は依然として意義のあることだ。』という政治的な発言は、学術論文にはふさわしくないなぁ・・・、と感じます。まぁ、Health Policyという誌名からすりゃ、いいのだろうけれど。

なお、この論文における試算は医療費だけのもので、喫煙者が支払わされているたばこ税は考慮されていない。
また、喫煙者40歳時点での損失寿命(損失余命)は3.5年とされている(期待余命39.6歳対43.1歳)。

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tag : イデオロギー 禁煙 全体主義 ファシズム 喫煙

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2012.03/21(Wed)

牛乳キャンペーンの謎(3)

Andrea S. Wiley (2011) Amer J Human Biol.
Cow milk consumption, insulin‐like growth factor‐I, and human biology: A life history approach
から、結論部の一節を和訳しておきます。

もし、牛乳が成長を促進し、より大きな成人体サイズをもたらすならば、その効果は必ずしもポジティブなことではない。というのも、早い思春期、小児期の速い成長、そして身長増加は慢性病のリスクを高めることに関係するからだ。ただ、インスリン様成長因子I(IGF-1)の現存研究が示唆するように、牛乳によるIGF-1の早期における促進は、そのあと成人期におけるその抑制につながる可能性もある;こうして、統制のとれない細胞増殖に関連した病気のリスクをこの抑制が低下させる可能性がある。


長寿のひとには小柄な人が多いですよね。

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15:17  |  牛乳と酪農  |  TB(0)  |  CM(0)  |  EDIT  |  Top↑
2012.03/19(Mon)

血液型とパーソナリティ(3)

血液型とパーソナリティの関係について、一つの仮説が最近(2011)、Medical Hypothesisという学術雑誌に掲載された:Personality traits of aggression-submissiveness and perfectionism associate with ABO blood groups through catecholamine activities(PubMed).多分、実質的には内容は同じだろうが別の学術誌Hypotheses in the Life Sciencesの創刊号にも掲載されている:ABO group B is associated with personality traits through linkage disequilibrium with low activity dopamine beta hydroxylase.

著者は産婦人科医で、後者の論文の謝辞には自身がB型であることを「告白」するというお茶目ぶりである。

ここでは、後者論文についてその要約部分を和訳しておく(前者については未読)。例によって、生硬な訳文だし、誤訳もあるかもしれないが、よろしく。
ABO式血液型はパーソナリティ形質との関連について研究されてきた。しかし、肯定的な所見についての科学的コンセンサスは得られていない。ABO式血液型の集団頻度分布について以前から知られているバリエーションや、ヒトゲノムプロジェクトで新たに発見されたABO遺伝子の一塩基多型のおかげで、パーソナリティ形質や健康リスクのABO式血液型との関連性についての描像は特異性を増しながら鮮明さを増し続けている。カテコラミン酵素の一つドーパミンβヒドロキシラーゼ(DBH)はABO遺伝子座と密接な連鎖不平衡の関係にある。病気だけでなくパーソナリティもカテコラミン遺伝子と関連(連鎖)しているので、DBH / ABO連鎖は、病気のほかパーソナリティ形質におけるABO式血液型の階層化に寄与している可能性がある。

ハップマップ母集団の頻度分布は、ABO式血液型Bとrs1611115(DBH活性のバリエーションに寄与する主要な対立遺伝子マーカーの低活性とで類似している。 また、この事はABO遺伝子座内部の連鎖不平衡と整合的である。さらに、二人(クレイグ·ベンターとジェームズ·ワトソン)に関する公的に利用可能なゲノムの総覧(レビュー)と伝記的な情報もこの関連性を支持している。ベンターとワトソンの両方ともB型以外の血液型と高活性のDBHを持つようであるし、パーソナリティ形質Persistence (粘り強さ)に整合的なドーパミン遺伝子型をもつように見える。こうした形質は公的に利用可能な伝記情報に証拠があるように見える。この仮説は、大規模な集団を用いてABOやDBHの遺伝子型とパーソナリティ形質を比較することによって検証することができる。

粘り強さ(Cloninger形質の一)はドーパミン作動性の神経伝達に関連付けられてきており、ドーパミン / ノルエピネフリン比を決定するDBH機能を経由してABO / DBH連鎖群と関係ありそうである。低 DBHは形質「衝動性」Impulsivenessに関係していることが知られており、このため「衝動性」はより高いドーパミン/ノルエピネフリン比に関係するようにみえるだろう。また、形質「衝動性」や動機の発現におけるドーパミン作動性の神経伝達の役割を実証した研究に基づくと、もっともらしい筋書きは次の通りである:ドーパミン作動性神経伝達が不活発だと「粘り強さ」行動を生み、より活発だと「衝動性」行動を生む。

大規模な集団遺伝学研究がこの仮説を立証するならば、事実上すべての集団でABO式血液型のデータが広範に利用できることを踏まえると、個人レベルでも、また社会や文化の領域でも人間行動の生化学的基盤に新しい光が投げかけられることになるだろう。

以上、要約についての和訳でした(3/5/2012)。

***********追記(3/19/2012)

なお、NATOMさんにコメント
でご指摘いただいたように、ABO遺伝子とDBH遺伝子が連鎖不平衡にある、という証拠はないようです。
著者のHobgoodが依拠した論文には「強い連鎖」を示す証拠がありましたが、Hobgoodはこれを「連鎖不平衡」の証拠である、と「誤認」してしまったようなのです。

NATROMさんのご指摘には大変感謝しております:誠に有難うございました。

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tag : 血液型 パーソナリティ

18:44  |  ABO血液型  |  TB(0)  |  CM(7)  |  EDIT  |  Top↑
2012.03/08(Thu)

ニセ科学批判と「錦の御旗としての科学」

この記事は三日前に投稿したものを大幅に加筆したものです。

血液型とパーソナリティについてこのブログで取り上げた理由について述べておきたい。

一つは、このブログを立ち上げたそもそもの理由とも重なる。

ニセ科学批判の人たちは、徒党を組んでいるような印象を受ける。まぁ、別にそれはそれでいいのだが。

だが、低線量被曝は怖くないとか、低線量被曝による健康影響はないと考えるのが科学的である、、、といった具合に、科学を錦の御旗として低線量被曝を怖がる人たちを馬鹿にしているように見えるし、結果として、原発事故の元凶(東電、霞が関、歴代政府、利権屋、等々)を免罪する形にもなっているとの印象を受けてしまうのである。低線量被曝のリスクは喫煙によるリスクよりもずっと小さいとかね(低線量被曝を喫煙と比較する欺瞞を参照のこと)。

低線量被曝による健康影響には統計的に有意な差が出ていない

(以下、大幅に加筆改定(趣旨は同じです)2012/03/08)

鬼の首をとったかのように得意満面でこう宣うのが多くのニセ科学批判者のようだ。

彼らの基本は、科学を錦の御旗のように振りかざすことだ。それで、きっと、彼らの言説もさぞかし科学的なんだろう、と思っても不思議ではない。

しかし、彼らは本当はちっとも科学的ではない。何故そういえるのか?
ニセ科学批判者は科学や自然に対して謙虚ではない
からだ。

言い換えると、
ニセ科学批判者にはphilosophy(知への愛)がない

哲学史に造詣がない、と言っているわけではない。哲学の根本精神に欠ける、ということだ。
博学ではあるかもしれないけれど、傲慢にみえる、ということだ。日本古来の言い方でいうと、論語読みの論語知らず、といったところね。
断定はしないけれど、彼らのネット上における発言をおっていくと上記の理由により、私にはそういう印象しか残らない、ということだ。もちろん、すべてのニセ科学批判者について言及しているわけではなく、そのように見えるものが多そうだ、ということね。

さて、「低線量被曝による健康影響には統計的に有意な差が出ていない」という現実に戻ろう。

ニセ科学批判者の多くの人は、これをもって、
低線量被曝には健康影響がない、というのが科学の結論だ
と宣う傾向があるようなのだ。

謙虚じゃないなぁ、と思う理由がここにある。
何故なら、統計に使われたデータそのものについての反省が彼らには全くないようであるからだ。

まず、低線量被曝の健康影響に関する事例そのものが充実している、とは言えないだろう?データ量は著しく少ない、と私は思うのだ。

第二に、健康影響としては白血病や癌を中心に統計がとられているが、統計にとられていない健康影響について、彼らは全く無視している;被曝による「非科学的で」「妄想に基づく」恐怖によるストレスの方が、放射線による影響よりも健康には悪い、と宣っているようだが、、、それこそ、このストレスそのものも健康影響であるのに、ね。

被曝しているという恐怖➜ストレスによる生物学的作用
被曝=放射線による生物学的(物理的)作用 (既存の統計データ+統計にかけられてこなかった作用
↑は、個人に対しては混然一体となって作用する。

第三に、統計上に有意な差がないということは「差があるとはいえない」ということであって「差がない」と結論できているわけではない。この点は間違えやすいので十分に気を付けたいところだ。

「差がない」という帰無仮説を統計的に否定できた場合、「有意に差がある」と結論するが、そうでない場合、つまり
この帰無仮説を統計的に否定できなかった場合は、文字通り、この仮説を否定できなかったわけである。

しかし、彼らは、低線量被曝には健康影響がない、これが科学からの結論だ、と科学という権威を振りかざして高らかに宣言するのだ。

差があるとは言えないし、差がないとも言えない。それが、統計的手法の限界だ。
したがって、現状での正しい結論は、この低線量被曝の問題については科学的な結論はまだ得られていない、というものだろう。
統計学的に差がないと証明するための手法については在野の生態学者、大垣俊一氏の文献「Type II error と Power analysis」(PDFファイル)に詳しい。

大垣氏が中心になって運営されているアルゴノータ・関西海洋生物談話会機関誌Argonautaを発行しており、上記記事はその11号です。この他にも、たくさん興味深い記事があります。

結局、科学を錦の御旗のように振りかざす多くのニセ科学批判者は非科学的である、と結論しても差し支えないのではないだろうか。彼らの本当の目的は何か?憶測するしかないけれども、彼らの意図がどうあれ、結果的には原発関連の権力者利権集団を免罪しているようにしか、私には見えない。

低線量被曝による健康影響の科学は未決着だ。つまり、現状では顕在化していない悪影響が今後、科学的に証明される可能性が残っている。被曝者に健康影響が出ても、科学的には証明できない場合だってその可能性を捨てきれない。こういうことが現実であることを勘案すれば、

多くのニセ科学批判者が行っているキャンペーンは極めて非人道的なのだ

さて、今回の趣旨からは少し脱線してしまったようだ。本題に戻ろう。

血液型とパーソナリティーについても、ニセ科学批判者はほぼ一様に、関係がないというのが科学的結論だ、と宣っておられるようだ。彼らのこの結論、あるいはそう結論する思考態度が私は好かないし、科学的でもないことは本日の前三つの話で論じたところだ。

能見式血液型人間学を批判するためには、その優生思想を叩くことが一番肝心な点だ。そこを前面に出して批判しない限り、やはり、本当の悪を免罪する役割をもってしまうのだ。しかし、ニセ科学批判者が能見式血液型人間学の優生思想を前面に出して批判してきたようには私には見えない。重箱の隅を突いている感じね。能見式血液型人間学に対する批判の要点については「血液型とパーソナリティ(1)」でまとめた通り。

以上、私がなぜ、血液型とパーソナリティの関係について論じたのかの理由になっているだろうか。
科学的に未決着のテーマを、科学的に間違っていると即座に否定する態度は科学的ではないし、そうすることによって科学の発展を自ら阻まなくてもいいのではないだろうか、という点を指摘したかったわけである。事実、血液型とパーソナリティの関係は科学的にとても面白いテーマになりつつあるしね:これは、その関係が最終的に否定されることになっても言えることだ;科学的仮説の意義は、その仮説が最終的に証明されるかどうかというだけのものではなく、どれだけ多くの研究を誘引するかという点にもある(大きな仮説ほど後者の価値の比重が高まる)。

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tag : ニセ科学批判 血液型 パーソナリティ 低線量被曝 喫煙

15:19  |  ABO血液型  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑
2012.03/06(Tue)

血液型とパーソナリティ(4)

NATROMさんの「遺伝学からみた血液型性格判断」をざっと読みました。遺伝学や統計学に造詣の深そうな内科医で、ニセ科学批判なども積極的に行っているようです。その子ページの一つ「ABO式血液型と性格の関連を示す医学論文」に、次のくだりがあり興味を引きました。少し長くなりますが、引用します。

****引用はじめ****(赤字はNATROMさん;桃色は私)

DBH遺伝子の位置は9番染色体の約127.6 Mb、ABO式血液型の遺伝子座は約127.2Mbです。その距離は少なくとも300 kb(300000塩基対)以上です(NCBI, 2002/10/11)。ABO式血液型を決定する遺伝子と同じ場所にDBH遺伝子があるという主張は間違いです。同じ場所ではなく、300 kb以上離れた場所に存在します。北ヨーロッパ由来のアメリカ人を対象にした大規模なスタディでは、連鎖不平衡の及ぶ距離は平均60 kbだと示されていますし(Reich et al, 2001)、私の所属する研究室の日本人集団のデータでも300 kbを超えた連鎖不平衡はきわめて例外的です(一塩基多型でのデータ)。

連鎖不平衡の程度は集団やゲノムの場所によって異なりますが、300 kb以上も離れた位置にあるDBH遺伝子とABO式血液型の遺伝子が連鎖不平衡にある可能性は小さく、仮に連鎖不平衡があったとしてもきわめて弱いものだと考えられます。ABO FANで引用されている情報だけでは、「血液型と性格の関係があっても不思議ではない」とは言えません。DBH遺伝子で血液型と性格の関連を説明できる、すなわち300 kb以上も離れた位置にあるDBH遺伝子とABO式血液型の遺伝子が強い連鎖不平衡あるとすれば、私にとってはそっちのほうが不思議です

****引用おわり****

私の知人、帯広畜産大学の後藤が、本川達雄「ゾウの時間、ネズミの時間」を批判して異説「ゾウの時間 ネズミの時間」の中で次のように書きました。

生物学に例外はつきものである、とは昔よく言われたことです。しかし、法則や原理と呼ばれるものに例外があるのなら、それが法則や原理としては誤りであることは自明のことでしょう。学問の進歩とは、こうした例外的事実を包含的に説明する法則を発見することによって成し遂げられるといっても良いのです。だから、例外の存在に科学者は胸を躍らせ、未知の理論の発見にいそしむのです。

この言葉に付け加えることは一つもありませんが蛇足します。

上記NATROMさんの文章は多くの読者にとって専門的で分かりにくいと思いますが、ここでは、その細部(つまり、科学的な内容)にこだわる必要は少なくとも一般の読者にとっては必要ありません。私が紹介した理由は、その科学的な態度を問題にしたかったのです。おい、おめぇ態度悪いじゃねぇかよ、って言いがかりをつけているわけではありませんよ。ただ、科学の芽をつんでしまうのはもったいないな、と。科学者は、少なくとも科学の場では、どのような態度をとろうと自由ですからね。興味をひかなければ無視されるだけだし、おかしすぎることを言っても無視されます。大胆で空想的な仮説だったら反応はまちまちかな?・・・といった具合にね。

さて、蛇足です。「きわめて例外的です」という部分ですが、私は、「きわめて例外的に存在します」と読みました。皆さんはどうでしょうか?だとすると、NATROMさんがこの論考を執筆する時点(2004/7/24最終改訂)では、今までの常識では信じられないほどの例外中の例外を手に入れていたわけです;羨ましい!。そうすると、論理的にはABO遺伝子とDBH遺伝子との関係も「例外中の例外」でありうるわけです(という科学的議論をするつもりはないのですが)。この例外の中にこそ、遺伝子間の物理的距離に比例すると考えられてきた(今でもそう?)遺伝子組換え頻度についての生物学常識を覆す(かもしれない)、何らかの生物学的メカニズムを予感させる何かが潜んでいるようで、わくわく、します。

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tag : 血液型 パーソナリティ 科学 例外の魅力

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2012.03/06(Tue)

低線量被曝を喫煙と比較する欺瞞

低線量被曝(累積線量100mSV未満)を喫煙リスクと比較する人たちがいる。
喫煙リスクに比べれば低線量被曝はたいしたことないよ、ということらしい。
リスクの大きさとしてはその通りなのかもしれないが、この比較は胡散臭い。

喫煙はスモーカーの自由意志としての嗜好、つまり個人の自由の問題であり
スモーカーを幸せにする。
放射能汚染は国家・東電・歴代自民党、もろもろの利権屋たちがばらまいた公害であり犯罪で大多数の国民を不幸にした。

確かに両者はがん死亡リスク因子という側面(一面)では比較できるだろう。
しかし、他の面では上に述べたことに代表されるように、対極的な側面をもつ。
その対極性を無視して並べるから胡散臭いのだ。

ものごとをその一面だけ取り出して事大的に喧伝すれば、その他の面が隠ぺいされ
異質なことがらがあたかも同等であるかのように錯覚させらてしまう
こうした欺瞞は、権力の常套手段の一つなのだろう。

公害であるのだから、関係者は早く元の状態に戻す責任がある。
被害の危険度の違いはあれ、被害者は(責任者以外の)国民全体だ。

被曝者は被曝そのものが及ぼす生理的・生活的負荷に加え、
(国家が国民に対して保証する義務を有する)安全と安心を個人で天秤にかけるという
余分のストレスを負うことになった。
これについては、損失寿命(損失期待余命)なる概念が今のところ最も直観的かもしれない。

なお、上述のようなリスク比較は、それを学界内部で行うだけであるなら、何も社会的な問題は発生しないでしょう。
十分な補足説明をすることなく、その比較評価だけを一般公衆に向けて発言するなら、それは隠蔽作用をもつ可能性が高い、と考えるわけです。

追記(2012・3・6):「六号通り診療所所長のブログ」の2011・4・13の記事「タバコと放射能は比較出来るのか?」に、別視点ではありますが共感できる解説がありました。頼もしいお医者さんですね。

テーマ : 放射能汚染 - ジャンル : 政治・経済

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2012.03/06(Tue)

科学帝国主義

科学を錦の御旗のように振りかざす態度(科学帝国主義とでも呼ぼうか?科学教の方がいいかな?)について考えているとき、ふと中学生の時に読んだパスカルの断章を思い浮かべた。その一節が「xxokkunのダメダメ日記」さんのサイトに記載されていたので転載させていただきます(改行などは私の好みで変えました)。

人間は無限と無、偉大と悲惨との間に浮動する中間者である。広大無辺な宇宙に比べるならば、ほとんど一つの点に等しい、一本の葦のように弱い存在である。だが、それは“考える葦”である。

空間によって宇宙は私を包み、一つの点として私をのみこむ。
だが、思考によって私は宇宙を包む。ここに人間の尊厳がある。

人間は偉大であると同時に悲惨であり、自分の悲惨を知るゆえに偉大である。

とても含蓄ある内容なので、私なんぞが論評できるものではないのだが、私はパスカルのこのバランスが好きだ。

以上、おしまい。

テーマ : 科学・医療・心理 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : パスカル 人間の偉大と悲惨 科学帝国主義

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2012.03/05(Mon)

錦の御旗としての科学

ちょっととても重たいテーマだな。

ニセ科学批判者集団は、科学者自身と科学に造詣の深い科学者以外の人々の部分集団には違いない。
その特徴の一つは、科学を錦の御旗にする態度、とか「科学的に証明されていないことは、真実ではない」と断定する態度なのかもしれない。

くどいようだが、科学的に証明されていないことは、科学的に結論が出ていないというのが正しい。
もちろん、科学的に否定されたことは科学的真理ではない、なら正しい。

伝統知、というのだろうか。長い歴史の過程(経験)で、科学(西洋科学)とは無縁の形で得られてきた「真実」はたくさんある。漢方医学などはその典型であろうし、、、さまざまな発酵食品とか、、、まぁ、いろいろある。

伝統知は、科学によって証明されていないことの方が多いだろう。このうち、科学によって否定されたものはどれだけあるだろうか?僕の肩こりなど、結構、鍼によって治療できるよ。

前回の続きの形でいうと、科学の題材は伝統知の中に無数に潜んでいる。
だが、科学は科学的に研究「できる」テーマだけを研究する、当たり前だな。
ここで言いたいことは、科学には未知のことだらけだ、という点だ。自然は余りにも広く、かつ深い。科学はそのほんの一部を明らかにしただけで、原理的に明らかにできないことも(もちろん自然現象で、だよ)無尽蔵にある筈だ。

現代に通用する科学というのは、一応、高度な科学的訓練を経ないとできない作業だ。この訓練を達成した証が理学博士、農学博士、工学博士、Ph.D.、、といった博士号だ(まぁ、ピンきりだが)。科学の現場から遠い人々にとって、科学はどのような存在だろうか。「その知見は科学で否定されているよ」と科学者から言われた時、「ははぁ~」と首を垂れ、うな垂れるしかないのではないだろうか。たとえ、納得がいかないにしても。

この意味で、科学の現場に近いものは、科学的言質には細心の注意を払うべきだろう。くどいようだが、科学的に証明されていない事柄、つまり科学的な根拠がまだ提出されていない事柄は、科学的にその真実性を否定されたわけでもなんでもない。伝統知を対比させたのはこういう文脈でのことだ。

今回、考えをまとめようと思った事柄とはだいぶ話がずれてしまった。
本当のテーマは、科学の現場からは遠い一般の人々にとって、「科学を錦の御旗のように振りかざされると、どうして弱いのか」ということを考えていた。時間切れなので、またね。

テーマ : 教育 - ジャンル : 学校・教育

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2012.03/05(Mon)

血液型とパーソナリティ(2)

ABO血液型とパーソナリティ(1)で能見式血液型人間学とそれにまつわる社会的問題について論じた。

今回は、そもそもABO血液型とパーソナリティには何らかの因果関係があるのか、という点について論じたい。
結論の一つは、現段階において、この因果関係については科学的に不明である、という点だ。科学的には不明であるのだから、科学的に否定されたと言うことではない。この点で、一部のニセ科学批判者たちの主張とは対立する。

私の立場は、科学的に不明であるから大いに研究を推進してもらいたい、ということだ。

それは、血液型(特に断らない限りABO血液型)とパーソナリティには何らかの関係がありそうだ、という「感じ」が基礎にある。例えば、先に紹介したタイプB連絡協議会のサイトで表現されるB型特性、あるいはダダモのサイトで示されているB型特性が、結構私にあてはまるんじゃないか、と思っているのだ。

ただし、紋切型態度を自戒するためにもう少し説明しておこう。
よく用いられているパーソナリティ理論の一つにいわゆるBig Fiveというのがある。仔猫の遊び場さんが簡潔にまとめている。ちょっと無断で拝借します(ごめんね)。
N神経症的傾向 Neuroticism
不安、敵意、抑うつ、自意識、衝動性、傷つきやすさ
E外向性 Extraversion
温かさ、群居性、断行性、活動性、刺激希求性、よい感情
O開放性 Openness to Experience
空想、審美性、感情、行為、アイデア、価値
A調和性 Agreeableness
信頼、実直さ、利他性、応諾、慎み深さ、優しさ
C誠実性 Conscientiousness
コンピテンス、秩序、良心性、達成追求、自己鍛錬、慎重さ

各々の素因について0~1の値を割り振れたとして、個人のパーソナリティは例えば(N, E, O, A, C)=(0.3, 0.4, 0.2, 0.8, 0.6)のように5つの値の組み合わせとして表現できる。今、各々を11段階に評価しているから、この組み合わせの数は11の5乗、つまり約16万通りのバラエティがある。現実には、各々について連続量(つまり∞)であるから、当然、組み合わせも無限大∞だ。

現実の個人はこのようにそのパーソナリティ特性は連続量であって、無限通りの個性をもつ。

これに対し、5つの素因を強さの順に並べると、5×4×3×2=120 通りのタイプ分けが出来るし、、、と書いているときりがないので、話を元に戻す。

血液型と性格というテーマは何故科学的なテーマになりうるか、というのが本題で、これに関連して、個人的に関係ありそうだなという実感を上に述べたわけ。

さて、パーソナリティの遺伝率は約40%である。つまり、パーソナリティの個人差は、遺伝的要因で約4割がた決まるということだ。一卵性双生児が一緒に育った場合、別々の家庭で育てられた場合を比較しての結論だ。

ABO血液型は遺伝率100%であり、環境にかかわらず遺伝子だけで決まってしまう。しかも、一つの遺伝子だけで決まる:遺伝子型と表現型(血液型)は一対一の対応で決まる。パーソナリティは、環境によっても変容されるし、介在する遺伝子も多数で、ポリジーン。量的形質ともいう。この点で、身長や血圧などのパラメターと同質だ。

パーソナリティの遺伝率が約40%で、しかも量的形質であることを勘案すれば、ABO血液型(遺伝子)のパーソナリティに及ぼす寄与も、その程度ではある。

また、血液型抗原の種類の違いやあるなしの違いが、少しでもパーソナリティに影響するとは直観的には理解しがたいだろう。しかし、その可能性はなくはないのだ。

一つは、連鎖不平衡という現象。つまり、血液型遺伝子と強く連動して遺伝する「性格決定遺伝子」の存在する可能性を否定できない、という点。

もう一つは、多面的効果の問題。血液型遺伝子は血液型抗原の青写真になるが、この血液型抗原は赤血球膜表面の他にもいろいろな組織に分布している(これは事実)。しかし、その生物学的機能は現在のところ未知であり、性格決定に寄与するような生物学的作用をもっていることを否定できない。交感神経と副交感神経のバランスを左右するのに関係しているかもしれないし、ドーパミン作動性の神経伝達を変容する作用を持つかもしれないし、、、、というような可能性のこと。

現代科学はこうした可能性を否定することが出来ていない。したがって、血液型とパーソナリティは一切無関係である、という命題は科学的には誤りである。

次回は、最近の面白い仮説を紹介する。

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tag : 血液型 パーソナリティ 遺伝率

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2012.03/05(Mon)

血液型とパーソナリティ(1)

ABO血液型と性格、というテーマは非常にたくさんの問題を抱えており、なかなかに難しい。

ニセ科学(疑似科学、似非科学、pseudoscience)ということで、その批判に熱心な人々も多いようなのだが、少なくとも「タイプB連絡協議会」=「血液型偏見差別研究センター」のサイトを参照すると、現在巷で流布している「血液型と性格」の台本になっている能見正比古・俊賢親子による「血液型人間学」なるものは基本的に優生思想ととらえるのが自然だと思う。以下、これを能見式血液型人間学と呼ぶことにする。B型に対するいじめの構造など上記サイトに詳しい。

優生思想については、社会ダーウィニズムとヒュームの法則優生学と人為淘汰を参照してください。

能見式血液型人間学は優生思想であるから、能見正比古・俊賢親子が提示するデータが科学的に正しいか誤りか、ということは基本的に二次的な問題である。ただし、いかに彼らがいい加減に(というか意図的に)データを捏造しているか、ということも上記サイトに詳しいので、是非とも読んでいただきたい。

もう一つ注意しておかなくてはならないことは、人間をステレオタイプ的に認識する(多くの?日本人の?)思考態度(以下、紋切型態度と呼ぼう)である。テレビのバラエティ番組というのかお笑い番組というのか、私なんぞには見るに堪えない(不快感を催す)番組をみて多くの日本人が笑い転げている(から、番組が継続しているのだろう)。初等中等教育における〇×教育とあわせ、人間性の劣化を推進するこうしたメディア戦略など(まとめて愚民化戦略とでも呼んでおこう)を通じて、日本人における紋切型態度が定着・拡大していく。

これに優生思想の能見式血液型人間学が結びつけば、その結末は明らかだ。

つまり、批判すべき点は、(1)能見式血液型人間学の優生思想、(2)紋切型態度を普及・拡大させる文科省政策や各種のメディア、(3)優生思想的に振る舞う個人個人、、、ということになろう。

もちろん、娯楽として、優生思想を取り払ったうえでの能見式血液型人間学を楽しむ分には、何の問題もない。それが科学だろうとニセ科学だろうと、娯楽なのだから楽しむだけでよい。ただし、紋切型のレッテル貼りや、B型「人間」はだから困るんだよね、といった差別はいけないことはもちろんだ。

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tag : 優生学 血液型 性格 パーソナリティ

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