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2012.02/08(Wed)

ダーウィン進化論の精髄(3)

今回は、科学用語の転用とイデオロギーについて考えます。

科学の場合、科学用語は厳密に定義されなくてはいけません。
自然淘汰という用語も、このシリーズの(1)(2)である程度厳密に定義したつもりです。例えば↓

自然淘汰;適応度の高い個体の子孫が同一種の集団内で分布を広めていく過程

このアイデアを人間社会に誤用したのが社会ダーウィニズムで、これはイデオロギーであって科学ではありません。
私は、社会ダーウィニズムについては学生時代に勉強したきりであり厳密な定義はできません。そこで「自然科学と階級的立場」に掲載されている論考「社会ダーウィニズム考」(林紘義)から一つの定義らしきものを引用します。

社会ダーウィニズムは簡単に言えば、生物界が、ダーウィンの言うように、生存競争と自然淘汰によって進化し、発展するなら、生物の一つである人類もまた同じ法則によって進化するのではないか、というものである。

私は久しぶりにこの論考(2002年)全体に貫かれている濃厚なイデオロギー性に触れ、30年以上も前の学生時代を思い起こして感慨深いものがありました。ただし、私はこのイデオロギーに与しているわけではありません。

この論考を読めば、この著者が「生存競争」と「自然淘汰」という用語を誤用していていることが容易に分かります。もっとも↑の引用文で科学用語を正しく理解した形で読めばこの引用文は基本的には真実なのですが、社会ダーウィニズムの含意するところを勘案すると、この引用文が科学用語を誤用していない限り社会ダーウィニズムを説明できないことになるのです。なお、ダーウィン自身による用語の定義自身にも曖昧性があったことは、ダーウィン理論の理解を巡って(私が学生だった頃でさえ)諸説入り乱れていたことからもわかります。

いずれにせよ、社会ダーウィニズムにおける「生存競争」や「自然淘汰」という用語が弱肉強食とか優勝劣敗などと親近感をもって使われたことは明らかでしょう。

ついでに、三省堂新明解四字熟語辞典から引用します。

自然淘汰 意味
自然界で、生態的条件や環境などによりよく適合するものは生存を続け、そうでない劣勢のものは自然に滅びていくこと。転じて、長い間には劣悪なものは滅び、優良なものだけが自然に生き残ること。▽「淘汰」は選び分ける。悪いものを捨て、よいものを取ること。もとダーウィンが進化論の中で説いた語。

適者生存 用例
その過程で適者生存の原則が適用され、強いものが生き残って、自然淘汰とうたが行われていく。<江藤淳・漱石における世紀末>

もうひとつおまけ。徳島大学総合科学部 学部共通科目「科学と人間」のプレゼンテーションのひとつ(PDFファイル)から。

「自然淘汰」は人間社会にも適用されるべきか?

このように、自然淘汰、生存競争、適者生存、等々の科学用語が当たり前のように誤用され、広く市民権を得ております。

この誤用には少なくとも三つの意味があります。

①誤用によって真の自然理解が妨げられていること
②自然法則をイデオロギー的に解釈していること
③自然法則の名を借りて、イデオロギー性を隠蔽したイデオロギーになっていること。

一番目のものは、まぁ愛嬌だ、といって済まされる問題ではあります。ただ、容易に②を媒介として③を導くものでもありますので、やはり改善しなければならないかもしれません。

とはいえ、根本的には問題は②、③の点にあるでしょう。

まず確認しておきたいのですが、
人間といえども自然法則(自然の力)に逆らうことは一つもできない
という点です。

人間の行為はすべて人為ですが、自然法則に従わない限り何もできません。これに対し、人間活動の結果、ご存知のように、自然は大きく改変されました。言い換えると、
人間は自然法則(自然の力)(法則性)にしたがって自然の流れを変えている
のです。

この自然の流れなら、人間社会の歴史を含め、ある程度意図的に方向付けることはできます。
しかし、絶対に自然法則には逆らえません。

さて、②自然法則(自然の力)(価値的に中立)をイデオロギー的に解釈し、自然法則を価値観(多くはそれを”善”とする)のように見立てることの本質はどこにあるのでしょうか?

自然法則をイデオロギー的に解釈して、ある特定の価値を付与、注入した時点で、「自然法則」なるものは、擬似自然法則(今の場合、自然法則を装ったイデオロギー)に変質しています。イデオロギーではないとみせかけたイデオロギーにほかなりません(③)。イデオロギーの隠蔽ですね。この隠蔽が可能なのは、社会ダーウィニズムで明らかなように、科学用語のイデオロギー的誤用に基づいています。

「生存競争(誤用)による自然淘汰(誤用)」(疑似自然法則:社会ダーウィニズム)にしたがうことが善だ。

或いは、社会ダーウィニズムに親近感のある基本態度と言うのは②ではなく、
④自然の流れに任せること(人為を排除すること)を善とするイデオロギー(つまり、これも人為なのですが)
である、という観点も成立します。

「生存競争」による「適者生存」、「優勝劣敗」の「弱肉強食」という「自然淘汰」を自然界の流れ、と見なし、この流れに人間社会も従おう、というイデオロギーが社会ダーウィニズムです。ただし、この場合の自然界の流れは嘘の流れになっています。

まぁ、イデオロギーなので、とやかく言ってもしょうがないと言えば言えるのですが、明らかに論理矛盾を犯していますね?
なぜなら、人間活動のすべてが「人為」だからです。数ある選択枝の中から、どの選択枝を実現させるか、、、その一つが「何も介入しない」という原理なのです。何も介入しないという介入、と言ってもいいかもしれませんね。例えば、トキは放っておけば絶滅するのが自然の流れなのだから、それに任すのが善、保護しようとするのは悪、といった感じです。

当たり前のことを何度も言いますが、人間活動は選択枝のうち一つを選ぶという行為なのです。大切なことは、その際の選択基準に一貫性を持たせる(ダブルスタンダードは変節行為)という点です。

「何も介入しない」という原則を善とするならば、そのイデオローグは医療介入も否定しなければなりません(筋を通せば、ですが)。その場合、近代人であれば、早々にお亡くなりになっている可能性が大きいですから、筋は通してこなかった、という推論が成り立ちます。もっとも、近代人の中にも、まれに、生れ落ちるときから、産婆にも医者にもかからなかった人はいるかもしれません。でも農業の興隆による恩恵(良好な栄養状態)という「人為介入」から免れていることはありえないでしょう。

さて、自然淘汰に戻ります。
科学的用語の正しい意味における自然淘汰に対して、人間のできることは適応度を変えることです。
このシリーズ(2)で適応度:所与の環境で、次代に残す繁殖可能な子孫数の遺伝的期待値、と定義しました。
このうち、人間活動によって変わりうるのは「所与の環境」と、個々人の遺伝的組成でしょう。

前者については、例えば、西洋的医療の介入強化、という形で現実に行われています。僕なんかが今も生きていられるのはそのおかげだな。

後者については、遺伝子工学など生物工学を通じた(生殖細胞の)遺伝的組成の人工的改変を想定しています。スーパー人間の遺伝的組成はどのようなものでしょうか(才色兼備、無病息災???)。そうした生物工学は近未来において不可能とは言えません。もちろん、そうした行為が行われてよいかどうかは、社会的な判断によって決めなければなりません。

ただし、こうした人為は技術的介入なので、自然淘汰というより人為淘汰の領域ですね。

したがって、これまでのところ、人間社会は、所与の環境(=適応度を規定する要因)を改変することによって、人間集団内部の遺伝的組成を(非意図的にせよ)変えてきた、と考えることが出来ます。自然淘汰という力そのものに逆らっているわけではなく、それに従いつつも、自然の流れ(進化方向)を変えてきたのです。近代医療の介入や豊富な食料供給がなければ(程度の差はあれ)遺伝的には生きていけない人間でも生きていけるのが現代日本社会だと思います。

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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 社会ダーウィニズム イデオロギー 自然淘汰 ダーウィン 適者生存 適応度

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