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2012.02/14(Tue)

ダーウィン進化論の精髄(4)

今回は自然淘汰に関連して、学術用語と日常語の交錯に、生物学者がどのように寄与しているのか、考えてみたいと思います。
まず、社会事象を記述するのに学術用語(今の場合、自然淘汰)を用いて比喩的に表現する事例。

Googleで、<自然淘汰 site:go.jp>で検索し、らしきものとして最初にヒットしたのが、総合研究大学院大学の学長、集団遺伝学者、高畑尚之教授の「国立大学法人とダーウィンの自然淘汰」(PDFファイル)です。国立大学財務・経営センターとかいう独立行政法人があるようで、そのどこかに掲載されていました。いろいろな行政法人があるものですね。初めて知りました。その理事長豊田長康氏のブログ「ある地方大学元学長のつぼやき」はなかなかに読みごたえがあり、これから勉強させてもらいたいと思っています。

さて、この所感らしき文書の一部を抜粋します。引用文中、赤字の部分は私による強調です。
法人化した国立大学が、それぞれの歴史や地域性を踏まえ、独自の社会的な役割を期待されることに異論はない。しかし、高等教育の在り方に対する明確な国策がないと機能分化によって多様化した国立大学は、ダーウィン的な「自然淘汰」の対象となるだけだ。(中略)
  種内の多様性(変異)には、その種を取り巻く環境からみて次世代を残す上で良いものと悪いものがある。生存競争の結果良いものは保存され、悪いものは捨て去られる傾向にあることを、ダーウィンは自然淘汰と呼んだ。自然淘汰は種内の多様性をふるいにかける。環境が一定のままで自然淘汰が働き続けると、多様性は枯渇しその環境に最適なものだけが生き残る。実際の場合に多様性が枯渇しないのは、突然変異による継続的な供給のためだ。
 国立大学の法人化以降の状況は、このような生物進化のプロセスに酷似してきた。新制大学のもとでは淘汰すべき基準がなかったし、もともと淘汰の対象でもなかった。
国立大学が法人化され、優勝劣敗の篩にかけられるようになったことを表現するのに、自然淘汰原理を引き合いに出すのは、的確な比喩であるとは私は思いません。優勝劣敗が自然淘汰による生物進化に酷似していると彼は述べていますが、酷似することになってしまったのは、彼が自然淘汰概念を通俗的な(世間的に誤解された)内容に近づけて表現したためです。それは、「良いものと悪いもの」という具合に価値観を(恐らく彼の意図ではないでしょうが、多分に筆のすべりとして)織り込ませてしまっている点に端的に表れています。

高名な集団遺伝学者ですから、自然淘汰についてももちろん一級の理解をされているはずですが、このような形で何らかの社会的所感を表明する際に、通俗的表現に妥協してしまっているのだ、と思います。こうした一つ一つの作業を通じて、学術用語の誤解釈が一般のひとびとに普及してしまうのでしょう。

権力による社会ダーウィニズムの喧伝や、売らんかな主義のサイエンスライターによる御解釈の普及に比べると社会的効果は小さいかもしれませんが、専門家の発言は権威付けの側面がありますから侮れません。

これに対し、ドーキンスの利己的遺伝子の場合は、「利己的」という日常用語を学術用語に転用して、一般の人々に混乱を巻き起こしたものと言えます。霊長類学者フランス=ド=ヴァールの言葉を借りると次のようです。なお、訳文は、帯広畜産大学後藤 健教授の「なわばりから群れへ」に記載されているものを引用します。
・・・ドーキンスは彼の比喩は比喩ではなく、本当に遺伝子は利己的なんだ、と弁解し、利己性をどのように定義しようと勝手だ、と言い張った。しかし、彼は、用語を全然異なった分野から借用し、とても狭い意味でそれを使ったのだ。こんなことが許されるのは、二つの意味がどんな時でも交錯しないときに限られるだろう;だが、不運なことに、二つの意味は混合し、このジャンルの幾人かの著者は、「ひとびとが彼ら自身のことを非利己的だなどと言おうものなら、おお!貧しい魂よ!汝は自己欺瞞に陥っているに違いない」とまでほのめかすまでにもなったのである。France De Waal, Good Natured The Origins of Right and Wrong in Humans and Other Animals, 1996 より(訳書あり)
遺伝子が同一ゲノム内の他の遺伝子と生き残りをかけて競争しているか、これは現在のところ想像の域をでないアイディアといっていいでしょう。自然淘汰の対象は個体としての適応度です。ゲノム内の遺伝的組成が調和を保持していない限り適応度は低くならざるを得ないのではないでしょうか:ここで、「調和」は、ゲノムとして適応度を損なわないような遺伝的組成、という意味合いで用いています。

いずれにせよ、自然淘汰の直接の対象が個体である限り、個々の遺伝子は適応度という基準で選抜されざるを得ないのです。つまり、一つの遺伝子を他の遺伝子と切り離した形でその繁栄ポテンシャルを評価することは、とても不自然のように思います;その遺伝子の適応度に対する影響は、他の遺伝子がAであるかBであるか、或いはどの染色体に乗るか、、、、等々のゲノム組成における位置づけによって左右される、と考えるのが自然だと思います。

さて、主題に戻りますが、利己的遺伝子論にはドーキンス自身が人間の遺伝的本性を利己的オンリーと考えている旨の表現があります。生物は確かに本性(つまり生物の遺伝的性質)として増殖しようという特性を持っています。生物の目的 The ENDは増殖です。人間もこの特性をもちろん持っています。しかし、知能をもつ生物であると、もう一つ別格、別次元の目的を持っているのであって、この場合にはそれをPURPOSEと呼ぶのです。知能が構築する目的Puposeは、生物の遺伝的に規定された目的Endとは全く次元を異にしていることに注意してください。

意識の中の「利己」と生命の目的endとしての増殖追求を混同してはいけません。

ドーキンスはこれを(作為的にか?)混同させ、遺伝子という物質に「意志」をもつかのような用語を割り当てたのでした。混乱は避けられません。

以上、両方向への用語の転用を概観してみたのですが、私としてはとても残念に思います。

第一に、誤解を解くために、大学での教育に無駄なエネルギーを割かざるを得ない。
第二に、一般のひとびとが科学的知識を得る上で大きな障害となっている。

生物学の概念には、難しいものは殆どないし、一般の人々にも親近感のあるものが多いだけに、こうした状況はとても憂うべきことだと思います。しかし、以上、二例でみたように、生物学者自身が煙に巻いているという現状を思うと、その改善は絶望的に不可能だといってよいのかもしれません。
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テーマ : 教育 - ジャンル : 学校・教育

tag : 自然淘汰 ダーウィン 学術用語 ドーキンス 利己的遺伝子 End Purpose

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