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2012.02/15(Wed)

優生学と人為淘汰

社会ダーウィニズムが、人間社会の動きを疑似自然淘汰(弱肉強食、優勝劣敗)に委ねようとするイデオロギーであるのに対し、優生学とか優生思想なるものは、権力による優生的遺伝子の選抜、という人為淘汰です。

何をもって「優生」(メンデル遺伝の「優性」「劣性」とは違います)とするか、権力層の思惑一つで決まります。この「優生」なる人々を「意図的に」残し、そうでないものを断種する、という政策です。

人為選択の基準:人間(優生であるかないか)
人為選択の実行者:権力層とそれに群がる御用学者など

その底流にあるというか親和性の高いイデオロギーは全体主義です。

優生思想においては、個人はその遺伝的組成でもって評価されます。
権力層の思い描く、国家、社会にとって価値のある存在(遺伝的組成)かどうか?

私たち、支配される側の人々は、人間の尊厳、という価値観でもってこれに対抗しなければなりません。
すべての人間は、人間であるという一点のみにおいて平等であり、個人としての尊厳を保証されなければならない。これが人間の尊厳という理念です。

優生思想は全体主義ですから、全体のためには個が犠牲にされるべきだ、と考えます。

この全体主義と似て非なるものが、和をもって貴しとなす、という日本古来の(とされている)精神です。
人間は社会的存在でありますから、「社会のために」という気持ちをもっています。社会的な存在感を感じられないとき、人間はストレスを感じるのです。

この社会的動物としての人間性につけ込むのが全体主義です。

確かに、個が全体のために犠牲になるべき局面はあると思います。
問題は、権力層にとっての「全体」と、私たち支配される側の「全体」は内実を異にする、という点にあります。

最大多数の最大幸福という理念(勉強したことありませんが)における最大多数とは、支配される側の私たち、と理解すべきです。個人の尊厳を理念とする社会こそ私たちにとっての「全体」です。そのためなら、自分が犠牲になっても仕方ない局面が訪れるかもしれません。

しかしながら、現実問題として、これまでの社会というのは、基本的に権力層のための社会であることは、自明のことです。
戦争など、支配される側の人々が戦争に駆り出されたり、爆弾を落とされたり、、、のようにです。

優生思想は、人類の将来にとって、、、という具合に、「全体」を配慮するように誘導します。
このときの「全体」は、権力層の都合の良い全体であることに注意が肝要なのです。個人の尊厳を踏みにじるような全体です。これは到底、許容できません。

御用学者はもちろん、マスメディア(朝日新聞とか?;クローン人間についての朝日新聞社説に関する後藤健教授の論評)、インテリ(死語か?)ぶる人々は、たいてい「全体」を配慮するような態度をしめして「善人」ぶりを見せかけます。しかし、その「全体」とはたいていの場合、権力層の都合の良い「全体」になっているのです。朝日新聞はいまだに戦前の軍国主義を煽った戦争責任をとっていません。

少々脱線したかも知れませんが、「全体」を配慮するよう求める論調にはその底流に権力層の思惑が隠されている、と私は考えています。

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テーマ : 哲学/倫理学 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : ダーウィン 自然淘汰 イデオロギー 適者生存 社会ダーウィニズム 優生学 全体主義 個人の尊厳

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