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2012.03/05(Mon)

血液型とパーソナリティ(2)

ABO血液型とパーソナリティ(1)で能見式血液型人間学とそれにまつわる社会的問題について論じた。

今回は、そもそもABO血液型とパーソナリティには何らかの因果関係があるのか、という点について論じたい。
結論の一つは、現段階において、この因果関係については科学的に不明である、という点だ。科学的には不明であるのだから、科学的に否定されたと言うことではない。この点で、一部のニセ科学批判者たちの主張とは対立する。

私の立場は、科学的に不明であるから大いに研究を推進してもらいたい、ということだ。

それは、血液型(特に断らない限りABO血液型)とパーソナリティには何らかの関係がありそうだ、という「感じ」が基礎にある。例えば、先に紹介したタイプB連絡協議会のサイトで表現されるB型特性、あるいはダダモのサイトで示されているB型特性が、結構私にあてはまるんじゃないか、と思っているのだ。

ただし、紋切型態度を自戒するためにもう少し説明しておこう。
よく用いられているパーソナリティ理論の一つにいわゆるBig Fiveというのがある。仔猫の遊び場さんが簡潔にまとめている。ちょっと無断で拝借します(ごめんね)。
N神経症的傾向 Neuroticism
不安、敵意、抑うつ、自意識、衝動性、傷つきやすさ
E外向性 Extraversion
温かさ、群居性、断行性、活動性、刺激希求性、よい感情
O開放性 Openness to Experience
空想、審美性、感情、行為、アイデア、価値
A調和性 Agreeableness
信頼、実直さ、利他性、応諾、慎み深さ、優しさ
C誠実性 Conscientiousness
コンピテンス、秩序、良心性、達成追求、自己鍛錬、慎重さ

各々の素因について0~1の値を割り振れたとして、個人のパーソナリティは例えば(N, E, O, A, C)=(0.3, 0.4, 0.2, 0.8, 0.6)のように5つの値の組み合わせとして表現できる。今、各々を11段階に評価しているから、この組み合わせの数は11の5乗、つまり約16万通りのバラエティがある。現実には、各々について連続量(つまり∞)であるから、当然、組み合わせも無限大∞だ。

現実の個人はこのようにそのパーソナリティ特性は連続量であって、無限通りの個性をもつ。

これに対し、5つの素因を強さの順に並べると、5×4×3×2=120 通りのタイプ分けが出来るし、、、と書いているときりがないので、話を元に戻す。

血液型と性格というテーマは何故科学的なテーマになりうるか、というのが本題で、これに関連して、個人的に関係ありそうだなという実感を上に述べたわけ。

さて、パーソナリティの遺伝率は約40%である。つまり、パーソナリティの個人差は、遺伝的要因で約4割がた決まるということだ。一卵性双生児が一緒に育った場合、別々の家庭で育てられた場合を比較しての結論だ。

ABO血液型は遺伝率100%であり、環境にかかわらず遺伝子だけで決まってしまう。しかも、一つの遺伝子だけで決まる:遺伝子型と表現型(血液型)は一対一の対応で決まる。パーソナリティは、環境によっても変容されるし、介在する遺伝子も多数で、ポリジーン。量的形質ともいう。この点で、身長や血圧などのパラメターと同質だ。

パーソナリティの遺伝率が約40%で、しかも量的形質であることを勘案すれば、ABO血液型(遺伝子)のパーソナリティに及ぼす寄与も、その程度ではある。

また、血液型抗原の種類の違いやあるなしの違いが、少しでもパーソナリティに影響するとは直観的には理解しがたいだろう。しかし、その可能性はなくはないのだ。

一つは、連鎖不平衡という現象。つまり、血液型遺伝子と強く連動して遺伝する「性格決定遺伝子」の存在する可能性を否定できない、という点。

もう一つは、多面的効果の問題。血液型遺伝子は血液型抗原の青写真になるが、この血液型抗原は赤血球膜表面の他にもいろいろな組織に分布している(これは事実)。しかし、その生物学的機能は現在のところ未知であり、性格決定に寄与するような生物学的作用をもっていることを否定できない。交感神経と副交感神経のバランスを左右するのに関係しているかもしれないし、ドーパミン作動性の神経伝達を変容する作用を持つかもしれないし、、、、というような可能性のこと。

現代科学はこうした可能性を否定することが出来ていない。したがって、血液型とパーソナリティは一切無関係である、という命題は科学的には誤りである。

次回は、最近の面白い仮説を紹介する。
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テーマ : 科学・医療・心理 - ジャンル : 学問・文化・芸術

tag : 血液型 パーソナリティ 遺伝率

14:20  |  ABO血液型  |  TB(0)  |  CM(11)  |  EDIT  |  Top↑

「血液型とパーソナリティは一切無関係である、という命題は科学的には誤りである」という主張には同意いたします。少しお聞きしたいのですが、どなたか「血液型とパーソナリティは一切無関係である」と主張されていたのでしょうか?もしかしたらいたのかもしれませんが、私が信頼しているニセ科学批判者でそのような主張をしている人はいないのです。

一部のニセ科学批判者たちが「血液型とパーソナリティは一切無関係である」と主張しているのであれば、引用元を明確にして、その部分を引用してはいかがでしょうか。架空の藁人形を批判しているように見えます。
NATROM | 2012.03.09(金) 09:04 | URL | コメント:編集

●架空の藁人形

NATROMさん、コメント有難うございます。

能見式血液型人間学に対する私の意見は
http://euglena00.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
で申し上げました。

架空の藁人形。。。
う~ん、、、そういう側面はあるかもしれませんね。
ざっと読んで(といってもネット上のものですが)、、、大づかみな印象で話はしております。
つまり、「血液型とパーソナリティは一切無関係である、とは言えないのが科学の結論だ」という基本的態度が伝わってこなかった、ということです。

さて、誠に恐縮ですが、こうした基本的態度がビンビンに伝わってくるような、ニセ科学批判者による文献が何かあれば教えてください。勉強してみますので。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.09(金) 12:52 | URL | コメント:編集

●悪魔の証明

>つまり、「血液型とパーソナリティは一切無関係である、とは言えないのが科学の結論だ」という基本的態度が伝わってこなかった、ということです。

もしそうなら、euglena00さんがご覧になったネット上の意見は、「血液型とパーソナリティは一切無関係である」と証明することは困難である(というか不可能)という「悪魔の証明」に関する議論は基本的なものとして共有されており、わざわざ明確に言うまでもないという前提で書かれたものだったのかもしれません。


>さて、誠に恐縮ですが、こうした基本的態度がビンビンに伝わってくるような、ニセ科学批判者による文献が何かあれば教えてください。勉強してみますので。

たとえば私の「遺伝学からみた血液型性格判断」。トップページに「血液型と性格に一般的に信じられているほどの強い関連があるという科学的証拠はいまのところありません」と書いてあります。「強い」「いまのところ」「関連があるという証拠はない」あたりがポイントです。もうちょっとハッキリ言っている部分としては、

>特に私は「ABO血液型と性格には関連がない」と主張しているのではなく、「広く信じられている血液型性格診断が言うほど、ABO血液型と性格には強い関連があるという証拠はない」「血液型と性格の関連の肯定論者の提示する論理や証拠には問題がある」と主張していることに注意してください。
http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/BloodNatrom.html


きくち先生(菊池誠)はニセ科学批判の第一人者と言っていいと思いますが、きくち先生は血液型性格診断に言及するにあたって、「強い関係」「弱い関係」についてしばしば述べています。たとえば、


>能見説は「個人の性質は論じられないほど、弱い関連」の話などではないはずですよね。その程度のことなら、なんの役にも立ちませんから、あんなにたくさんの本を書いたってしょうがない。
>一方、ABOFANさんは、その場その場で、「弱い関連」と「強い関連」を都合よく使い分けているように見えます。
>「個人の性質は論じられないほど、弱い関連」しか見つけられないなら、能見説はむしろ「おおむね誤り」でしょう。まあ、能見自身もそのあたりを都合よく使い分けているのかもしれませんが。
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1158225244


血液型と性格に「弱い関連」がある可能性については、一般的には否定されていないと思います。
NATROM | 2012.03.09(金) 17:54 | URL | コメント:編集

NATROMさん、コメント有難うございます。

NATROMさんに、今回転載していただいた部分のNATROMさんの見解については、基本的に同意できます。もっともだからこそ、というか、論理的に妥当な見解を表明していると思ったからこそ、
http://euglena00.blog.fc2.com/blog-entry-46.html
でNATROMさんについて言及させてもらったわけです。

ただし、「血液型と性格の関連の肯定論者の提示する論理や証拠には問題がある」という場合、肯定論者を十把一絡げにくくれるかどうか、に曖昧性を感じます。

強い関連、弱い関連についての(引用して頂いた)きくち先生(菊池誠)の文脈からすると、何らかの説明力があるものを強い、ないものを弱い、と暗黙に定義しているように思いますが、いかがでしょうか?

まぁ、能見説を云々してもしょうがないと思うのですが、能見説だと何%程度の説明力を主張しているのでしょうか。そこが、強い、弱いの分岐点になりますね。そうして、強弱の尺度が明確に定義されて、始めて強弱についての議論が成立することになります。

能見説が100%の説明力を表明しているとすれば、99%の説明力でも「弱い」と判定されますし、ね。

いずれにしても、パーソナリティの遺伝率は40%程度ですから、血液型からパーソナリティを説明する力は最大でも40%ですよね?

私は一つも読んだことないのですが、きくち先生(菊池誠)を中心としてニセ科学批判の書籍をいくつか出版していることは知っています。先ほどの繰り返しになりますが、そうした書籍は『こうした基本的態度がビンビンに伝わってくるような、ニセ科学批判者による文献が何かあれば教えてください』に該当する文献になっているでしょうか。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.09(金) 19:12 | URL | コメント:編集

●「大づかみな印象で」

>ただし、「血液型と性格の関連の肯定論者の提示する論理や証拠には問題がある」という場合、肯定論者を十把一絡げにくくれるかどうか、に曖昧性を感じます。

肯定論者を十把一絡げにくくれません。少なくとも私は、血液型と性格の関連を論じる心理学者と、能見親子を十把一絡げにくくってはいません。他のニセ科学批判者の多くも、十把一絡げにくくってないと思います。


>強い関連、弱い関連についての(引用して頂いた)きくち先生(菊池誠)の文脈からすると、何らかの説明力があるものを強い、ないものを弱い、と暗黙に定義しているように思いますが、いかがでしょうか?

いずれにせよ、能見説のようなあからさまに「強い説明力」がないことは明らかですので、きくち先生の主張に問題があるとは思いません。


>まぁ、能見説を云々してもしょうがないと思うのですが、能見説だと何%程度の説明力を主張しているのでしょうか。そこが、強い、弱いの分岐点になりますね。そうして、強弱の尺度が明確に定義されて、始めて強弱についての議論が成立することになります。

私は「能見説を云々してもしょうがない」とは思いません。たとえば、私のサイトでは、「血液型と性格の関連の肯定論者」を批判しているのではなく、能見説を批判しているのです。肯定論者を十把一絡げにくくれないからです。「強弱の尺度」については、たとえば能見正比古は血液型人間学という本で以下のように述べています。


>では、この野菜の種類、つまり血液型による共通性以外の個性とは何か、という疑問が出る。だが、それが何によって分けられるかは、まだ解明できない問題だ。ABO式以外の血液型も多少は関係しているのかもしれない。私は、よく、こう申し上げる。
>「血液型でわかるのは性格のうちの四分の一ですよ」
>人間の性格は、先天的気質と後天的な形成の両者から成る。血液型が関連するのは、先天的な気質の部分だから、まず、半分。その気質は、野菜の個性と、血液型による共通性が、また半々と見て、合計四分の一という大まかな計算である。

これは論外な主張ですので、ニセ科学と言っていいと思います。


>そうした書籍は『こうした基本的態度がビンビンに伝わってくるような、ニセ科学批判者による文献が何かあれば教えてください』に該当する文献になっているでしょうか。

前にも述べましたが、ごくごく基本的なことまでわざわざ明確に言っていない場合が多いです。それよりも、「この点で、一部のニセ科学批判者たちの主張とは対立する」と言っている以上、euglena00さんがしないといけないことは、「一部のニセ科学批判者たち」が誰なのか、「一部のニセ科学批判者たちの主張」とは具体的にどういうものなのかを明示することだと思います。「肯定論者を十把一絡げにくくれるかどうか、に曖昧性を感じ」るのに、ご自分は「大づかみな印象で」ニセ科学批判者のことを語れるのでしょうか。
NATROM | 2012.03.10(土) 09:52 | URL | コメント:編集

●(1)血液型と性格の関連性が科学的に否定された、と主張するニセ科学批判者は一人もいないかどうか。

NATROMさん、コメント有難うございます。

今回の私のコメントでは、Hobgood仮説にまつわる問題と、ニセ科学批判にかかわる問題の二つに分け、後者のみ本日は取り上げます。前者については後日になります。
ブログテーマ(本文の部分ね)が二つに分かれていると煩雑に感じるので、このコメント以降、一つのブログテーマ、いまここにあるところね、の下にコメントを連ねて行きたいと思います。

(1)血液型と性格の関連性が科学的に否定された、と主張するニセ科学批判者は一人もいないかどうか。

『euglena00さんがしないといけないことは、「一部のニセ科学批判者たち」が誰なのか、「一部のニセ科学批判者たちの主張」とは具体的にどういうものなのかを明示することだと思います。』
というNATROMさんの主張についてから始めます。

このうち、後者の点については↓のように明示してあります。

『結論の一つは、現段階において、この因果関係については科学的に不明である、という点だ。科学的には不明であるのだから、科学的に否定されたと言うことではない。この点で、一部のニセ科学批判者たちの主張とは対立する。 』

さて、前者の点、つまりNATROMさんのもう一つの異議:
「科学的に否定された」と主張するニセ科学批判者は一人もいないはずで、
いないのに私のように主張するのは「架空の藁人形」を攻撃しているようだ、ということでしたね?

誰か、関係性が「科学的に否定された」と明示的に主張するニセ科学批判者が名乗りをあげてくれればいいのですが。。。

なにぶんにも、批判材料をひとつひとつ丹念に拾い上げているわけではなく、ニセ科学批判者の主張を聞くたびに印象付けられ、、、という繰り返しで、、、どこのだれが、いつどんな発言をしたか、ということには関心を示しておらず、いってみれば、総体として、かくかくしかじかの主張である、という形での認識を形作ってきたわけです。

でも、ちょっと探してみますね・・・。

xx時間経過・・・


なんと御大将の↓のような文章に出くわしました。
菊池誠『「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)』(2003/2/17)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html
より引用します。
心理学の問題としては既に充分に研究されており、血液型と性格の関連は認められていない:
否定されたあとの対応によって、普通の科学にもニセ科学にもなる


ここでは、血液型と性格との関連は否定された、と明示的に記載されています。

好意的に解釈すれば、レジュメとしての記述ですから要点のみを記載したために正確性が犠牲になったとか、敢えて挑戦的に記して想像力を駆り立ててみた、ととることもできますが、それをネットで公開する以上、「否定された」と解釈されてしまうような表現は適切ではないでしょう。ご本人の本意がどこにあれ、この文章(結論)だけが一人歩きすることは避けられません。言い換えると、この文章そのものが菊池誠先生の主張である、と読者が判断した時、その原因は読者ではなくこの文章そのものにあるのです。

しかもNATROMさんがおっしゃるように、『ごくごく基本的なことまでわざわざ明確に言っていない場合が多いです。』ということなのですから、なおさらです。ここで、『ごくごく基本的なこと』とは「科学的に証明されていない関連性は科学的に否定されたことを意味しているわけではない」ということでしたよね。

でも↑に引用したレジュメでは「否定された」とはっきりと明示されています。なので、もし、その『ごくごく基本的なこと』を原則にしているとすれば、「わざわざ明確に言っていない」というよりは、「敢えて嘘をつく場合もありますよ」というのが実情に近い、と受け取られたとしても不思議ではないでしょう。まぁ、もちろん、手が滑ったというか、走り書きによるケアレスミスというかね。そういう風に好意的に理解することもできないではないですが、この好意的な解釈はここでのNATROMさんとの議論には通用しますが、件のレジュメの一般読者(不特定多数)には通用しない解釈です;ここで一般読者と言っているのはニセ科学批判者(のうち、菊池誠理解者)以外という意味です。ただし、少なくとも公開後一年半の間は数度にわたる変更を施したことが明記されており、ケアレスミスなどの余地はないでしょう。

でも、この「ごくごく基本的なこと」こそ重要なのではないでしょうか?科学を啓蒙したいというNATROMさんのお気持ちは十二分に伝わってきますので、なおさらです。釈迦に説法ですが、何事も、基本中の基本こそ大切なのではないでしょうか?まして、主な対象者はニセ科学に騙されやすい人々なのでしょう?

さて、このレジュメは2003年のもののようです。これまで9年もの長きにわたって公開されてきたことのようです。NATROMさんはお読みにならなかったのでしょうか?菊池誠先生の周辺の方々は誰もこの記述に対する訂正の必要性を進言しなかったのでしょうか?不思議です。

他の文書もあわせ総合的に理解するべきだ、という理屈はニセ科学批判者(特に、菊池誠グループね、今の場合)内部の人々に向けられるのであればOKですが、外部の人々に対しては単なる責任転嫁になりますよ(上述しましたが)。念のため。レジュメですから、論文でいえばAbstractに相当する、とみなすこともできますしね。

なお、レジュメ引用文につきもう一点、蛇足を付け加えます。「心理学の問題としては既に充分に研究されており 」の部分です。「充分に」であるならば、それ以降はもうこれに関する心理学研究は存在しないか、ずっと下火になっていると予想するのが妥当です。そこで、この予想をチェックしてみました。Google Scholarで psychology personality statisitics “abo blood”の四語句が「少なくとも要約部分」に入っている論文を検索すると1994-2002の8年間で39件の論文がヒットするのに対し、2003-2011の8年間ではなんと2倍以上の90件がヒットしました。予想は大幅に外れてしまいましたね。検索語が適当ではない可能性については後述します。

境目の2003年は菊池誠先生のレジュメが提出された年です。菊池先生はその時点で充分とご判断されていたけれども、まだまだ研究の余地があると考えていた研究者はたくさんいた、ということになります。つまり、充分にという言葉は、充分に「主観的になりうる」ということです。何故、彼は「充分に」という言葉を使ったのか?

もちろん、ヒットした論文には「血液型と性格」には余り関係ないものも含まれているかもしれませんし、もしかすると、後半の8年は「血液型と性格」の関係性を否定するようなものが大半を占めている可能性もあります。いずれにしろ、「学術的に充分に」とはもう学術的に議論は尽くされたということであって、仮に後半のものの大半が「否定」系のものだとしても、議論は尽くされていた、という事実を否定するには充分なことのように見えます。

検索語をopenness “abo blood” に変えると、11件(1994-2002)対52件(2003-2011)となりました。おっと、因みに日本姓が第一著者になっているのを数えると0対1でした。なんと、日本の心理学者は(少なくともこのテーマでは)英語学術論文をほとんど書かない、ということですね。困ったね。極めて優れた研究(なになに賞もの、という意味ね)ならいざ知らず、普通の論文を日本語で出版しても学術的な貢献は極めて限定的になってしまう、と思うんだけど。純粋な「学術貢献」という視点だけでみると、そう評価せざるを得ないでしょう。

英語で書くほどの重要性はないと国内心理学者は自己評価したのでしょうか。それとも、重要だからこそ日本語で書くという、あっぱれな態度が彼らの流儀なのでしょうか。そこは部外者にはわかりませんね。

いずれにせよ、菊池誠先生が依拠した心理学研究というのは、どれほどに信頼性のおけるものだったのか、という疑問もわいてきてしまうような事実ではあります。この点もまた重要な論点になります。もちろん、菊池誠先生もNATROMさんも、その信頼性については95-100%の評点をつけているのだと思いますけれど。そうでなければ、心理学研究で十分に否定された、とは結論できませんからね。

なお、学界の主流見解というものが科学的に正しい命題である、ということにはならないということはNATROMさんもよくご存じのことと思います。したがって、例えば国内心理学界の主流が「血液型と性格」の関連性に否定的であるとしても、それ自体で、その否定的傾向の「科学的」根拠になる、ということにはなりません。専門外の人はしかし、その専門家の主流的見解を承認するしか手立てがない、というのが一般的な実情でしょうけれどね。

もちろん、(小学校や中学校の)教科書的スタンダードになっている知識についてはこの限りではありません(高校や大学レベルのものだとひっくり返る可能性はより高くなる)。専門外の文献を丹念に分析する(という科学的な態度を貫くという)ことは、本人の仕事の妨げになりますからね。それにもかかわらず、NATROMさんが専門外の心理学文献を丹念に研究したというのであれば、その情熱には誠に頭が下がるばかりです。その成果、つまりまとめのようなもの、はNATROMさんのページに掲載してあったでしょうか?多分なかったと思うので、時間が出来たときにでも是非掲載していただけると、科学的公平性がずっと高くなる、と思います。

穿った見方だって可能です。充分に、と言って一般聴衆に釘をさしておけば、提示されたその結論に対して、学術的に反論する余地が極めて減少する、と考えるのが自然だからです。まして、演者は大阪大学の教授ということで「権威」も一般の人々は感じております(もちろん、先生自身が権威を振りかざして、と言っているわけではありませんよ;そういう社会的ステータスにある、と言っているだけです)。まぁ、その学習会で充分に議論の時間があれば、ところで先生、「充分に研究されておる」というのはどういう状況でしょうか、と質問する一般聴衆がいたかもしれませんが、そのような事例は極めて例外的にしかおこらないということは十分に予測できます。

以上、『科学的には不明であるのだから、科学的に否定されたと言うことではない。この点で、一部のニセ科学批判者たちの主張とは対立する。』ということの実例を少なくとも一つ(しかも御大将)示しました。このレジュメだけでなく総合的に判断しろよ、という弁解もありえるのですが、この弁解についての見解も既述の通りです。また、蛇足として二点(「充分に」という言葉と信頼をおくことの根拠)について考察してみました。

さて、繰り返しになります。まず、ニセ科学批判が科学界内部に向けられた言説でないことは自明のことだ、ということが大前提です。ニセ科学が科学界に巧妙に紛れ込むことは可能性としてなくはないですが、例外的ですし、ニセ科学批判者の出番ではないでしょう。そうすると、『ごくごく基本的なことまでわざわざ明確に言っていない場合が多いです。』というのが事実だとしたら、科学界外部のひとびとを買いかぶり過ぎているということになるし、まして、最大の目的がニセ科学に騙されやすい人々に対する啓蒙であるとすれば、ごくごく基本的なことをこそ、丁寧に優しく説明することのほうがずっと有効だろう、と思うのです。

最後になりますが、『『こうした基本的態度がビンビンに伝わってくるような、ニセ科学批判者による文献が何かあれば教えてください』に該当する文献になっているでしょうか。』という私の質問に対するご回答は上に引用した『ごくごく基本的なことまでわざわざ明確に言っていない場合が多いです。』という事のようです。とすると、少ないながらも存在するということになりますので、その希少な文献を教えてくださると有難いです。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.12(月) 17:13 | URL | コメント:編集

●(2)能見式血液型人間学の的中率

菊池誠先生は、能見式血液型人間学程度の予測力を「強い」、それ以下のものを「弱い」とみなしたわけです。で、NATROMさんが能見見解↓を転載してくれました。有難うございます。

『では、この野菜の種類、つまり血液型による共通性以外の個性とは何か、という疑問が出る。だが、それが何によって分けられるかは、まだ解明できない問題だ。ABO式以外の血液型も多少は関係しているのかもしれない。私は、よく、こう申し上げる。 「血液型でわかるのは性格のうちの四分の一ですよ」 人間の性格は、先天的気質と後天的な形成の両者から成る。血液型が関連するのは、先天的な気質の部分だから、まず、半分。その気質は、野菜の個性と、血液型による共通性が、また半々と見て、合計四分の一という大まかな計算である。 』

あれれれ、れ?

もしかするとニセ科学批判者の方々は能見氏に踊らされていただけなのかな?
能見氏のトリックにだまされてしまったとか。そんなことないと、信じたいのですが。少々、私の頭は混乱してしまった。

***(3/13/2012追記)

能見式血液型人間学の(暗黙の?)大前提は性格は類型的である、ということでしょう。性格1型、性格2型、、、、というように質的に(離散的に)区別されていて、量的な要素(連続性、勾配)が(たぶん)全く認められていない。

性格1型でなければ、その他の性格特性のどれか、ということになる。

この大前提は、血液型「だけ」から性格を予測し、逆に性格から血液型を予測するというゲームを構築するためには必然的な論理的要請であったろうと思う。

こうして、血液型4タイプ⇔性格類型4タイプ、という占い(予測ゲーム)が完成した。

前日(3/12/2012)に議論した以下の考察(テーマ(2)とテーマ(3))は、すべて、能見式血液型人間学がこうした大前提に基づいたものである、ということを前提にしたものである。

***(3/13/2012追記おわり)*****


確か、血液型性格学は占いとは違うんだ、ということも能見氏は主張したと聞いております。しかし、この一節では逆に占いではないかのように「装って?」占い宣言しているようなものではありませんか!!!???占いという言葉は出てきておりませんが、占いであること以上の予測力は一つも主張していない。言い換えると、この一説に関していうと、科学的な言説を装ったうえで(ニセ科学的)、本当は科学的な言説ではないんだよ(ニセ科学ではなく占いなんだよ)という主張というかエクスキューズを行っている

血液型「だけ」で分かるのが四分の一とすれば、血液型を能見式血液型人間学で言い当てられる確率は四分の一。血液型四つが均等に分布する集団を作ると、正四面体のさいころ(偶然)によって血液型を言い当てる確率も四分の一。これって、何?とても控えめな主張と言うか、何も主張していないに等しいとしか考えられないのですが、、、僕の計算、間違っていますか?

そうすると、前回僕が理解したと思っていた「強弱」の尺度も変えないといけません。菊池誠先生は、能見式血液型人間学程度の予測力を「強い」と想定しそれを否定したのですよね。で、それよりも「弱い」関係ならあることは否定しない、と。しかし、能見氏は25%を予測力と言っている、つまり偶然、さいころ、占いと同程度には的中する、と言っている。

トリックは、もともと血液型「だけ」によって性格特性を判断するという前提に立っただけで、既に性格特性は四つにしか分類できず25%的中率が自動的に保証されてしまうという点にあります。このこと(25%的中率の自動的保証)には巧みに触れず(というか、むか~し、一度読んだだけで何の記憶も残っていませんが、ありうることとしてこのように想像すると)、上記転載文のようにもっともらしく説明することによって、25%的中率が、偶然による自動保証であるという点を隠蔽するとともに、能見式血液型人間学の効能によってもたらされたものであるという幻想というか錯覚が読者に刷り込まれてしまったのでしょうか。

蛇足ですが、先ほどの菊池誠先生のレジュメからもう一点引用しておきましょう。
『(なぜ受け入れられ、信じられるのかについての仮説) 1. 4分類という思い切った割切りかた(10分類では誰も覚えようと思わない。1分類では面白みに欠ける)による使いやすさ(雑誌記事等)とわかりやすさ 』
折角の仮説ですが、既述のように、ABO(表現型)血液型と性格という問題設定では四分類しかありえません。性格判断の予測を血液型「だけ」によって行う、という問題設定だとね。まぁ、男女別にして8分類にすることはできるでしょうが、それでも♂四つ、♀四つで変わらないですね。別に、能見氏が、分類そのものについて「思い切った」わけではないと思いますよ。それしかあり得ない。もちろん、A型人間にも3タイプあって、、、というような設定も可能ですが、そうすると、その3タイプを決定するものには血液型以外のものをもってこざるを得ません。蛇足しておきますが、「 10分類では誰も覚えようと思わない。1分類では面白みに欠ける」という部分も、能見氏がそうしなかったのは、それが不可能だったという論理上の理由からです。そもそも1分類って能見式でなくても、(性格には確かに質的な要素があるのだし、分類はそもそも「分ける」作業なんだからね)、ありえないように思う(どうでもいいことですが)。

更に蛇足ですが、、、受け入れられた最大の理由は、何となくあたっている感じがする し、娯楽として手軽で面白い、ということだからじゃないでしょうか。これは情の世界の問題ですから、この(特別な)情を理解できないと、この理由は考えられないかもしれません;ということは、菊池誠先生はこの(特別な)情に対する共感度が全くないかあっても「十分に」低い、と予測されるわけです。

さて本題に戻ります。僕は、ニセ科学批判者が躍起になって攻撃しているものだから、能見式血液型人間学は、きっと、少なくとも偶然確率よりは高い的中率を主張しているのか、と思ってきたんですよ。パーソナリティの遺伝率40%を超えた的中率を主張しているなら、それだけで断罪できる、とも思ってきた(この遺伝率に関する証拠を覆す証拠を提示しない限りね)。しかし、↑に主張された的中率なら、それを躍起になって否定することにどれほどの意義があるのか?あたるも八卦あたらぬも八卦、と主張するものに対して、何が言いたいのか、、、理解できないなぁ。

おっと、本題の強弱ね。なんか、頭がこんがらかってくるよね。僕のような単純な頭だとね。

偶然確率を能見氏は主張しているわけだが、これより低い確率、って何?能見式血液型人間学においては、菊池誠先生の想定する「強弱」など、そもそも定義できないのではないのか、という風にしか、僕には考えられないのだが、、、。ステレオタイプをちょうど四つ設けた点で能見氏のトリックが効いてしまったわけだ。というか、能見氏でなくとも、血液型と性格の関連を問題設定した段階で、O的傾向、A的傾向、B的傾向、AB的傾向の四つしか考えられないわけだ。

ところで、NATROMさんも今回、『能見説のようなあからさまに「強い説明力」がないことは明らかです』とおっしゃっておられますが、能見見解自身が「強い説明力」を否定しているようにしか僕には見えないのですが、、、暖簾に腕押し、みたいな形になっていませんか。

さて、NATROMさんの『なぜ、性格の遺伝率が40%程度であるという定説があるからといって、能見説に対するたくさんの言説が不要になるのでしょうか?』というご意見ですが、、、

これは私の
『能見説を云々してもしょうがないと思うのですが、能見説だと何%程度の説明力を主張しているのでしょうか。そこが、強い、弱いの分岐点になりますね。そうして、強弱の尺度が明確に定義されて、始めて強弱についての議論が成立することになります。 』
『能見説が100%の説明力を表明しているとすれば、99%の説明力でも「弱い」と判定されますし、ね。 いずれにしても、パーソナリティの遺伝率は40%程度ですから、血液型からパーソナリティを説明する力は最大でも40%ですよね? 』
という主張に対するものでしたね。

これについては、能見式血液型人間学に対する私の基本姿勢は血液型とパーソナリティ(1) http://euglena00.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
で述べたとおりです。たくさんの言説はいらない、という主張はこの基本姿勢の当然の帰結だと思います。

能見氏の一節で今回明らかになった(と私が思っている)点からすると、既述のように、的中率の強弱について能見式血液型人間学については定義できない、というのが私の見解です。なので、能見式血液型人間学の的中率については科学的な評価ができない、ということになります:偶然を超える的中率という範疇が能見式血液型人間学にはもともとない、ということです。言い換えると、能見式血液型人間学はあなたたちの分類ではニセ科学には違いないのでしょうけど、元来、科学的な議論の対象となるような論理構造をもったものではない、ということです。占いは占いです、というだけのことなんですが。したがって、もちろん、それは科学的には否定できる代物ではない、とも言えるでしょう(性格特性が四つに分類できるかどうか、という点は別ですよ;この四特性にO, A, B, ABという血液型を割り当てていますが、この点は25%確率からしてどうでもよいこと(実質的な意味が与えられていないというのが実際のところであったわけだ))。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.12(月) 17:15 | URL | コメント:編集

●(3)娯楽としての能見式血液型人間学

さて、NATROMさんが、能見式血液型人間学を批判する目的のひとつは『血液型性格診断がニセ科学であることを理解できる人の割合が増えると・・・』ということのようですが、どのような人々を対象にしているのでしょうか。ネットでは、結構、ニセ科学批判者の姿勢が煙たがられているような雰囲気を感じてしまうんですが;「感じ」だけで、御免なさい。

いずれにしても、ニセ科学批判者は能見式血液型人間学のすべて、丸ごとを批判しているのですね。焦点がない。というより、とにかくまるごと排斥しよう、という姿勢が強く感じられてしまうのです;また「感じ」だけで御免なさい;まぁ、どのように受け止められているか、ということを問題にしております。

また、差別主義の部分やステレオタイプ的な特徴づけの部分は科学とは一切関係ない。ニセ科学批判というネーミングからすれば、この二者については領域外の問題ともいえます。

ニセ科学批判というネーミングにマッチングするのは、能見式血液型人間学が統計学を使って血液型と性格の関連性を示そうとした、という点ですね。この統計手法に、科学者なら犯してはならない「だまし」なり「捏造」なりがあるとすれば、それは叩くべきでしょう。「タイプB連絡協議会」=「血液型偏見差別研究センター」のサイト http://grabby.web.infoseek.co.jp/type_b/volume1/map.html
では、これでもか、これでもか、という具合に捏造を暴いていました。このサイトの管理人がどのような方か知りませんが、少なくともニセ科学批判者グループには入っておられない方とお見受けしました。

そうした捏造なりトリックなりがあるなら、その結論は論じてもしょうがない、ということにはなりませんか。しかも、今回明らかになったように、偶然確率以上の予測力を主張しているわけではない。

例えば、B型性格特性は、O型のひとの25%、A型のひとの25%、B型のひとの25%、AB型のひとの25%に備わっている、と主張しているわけでしょう?25%確率なんだから(性格には4タイプしかないとされているし)。何事かを主張しているわけではない。主張しているとすれば、B型性格特性とひとくくりにできるなにものかがある、という点と、そういうステレオタイプが4つしかないとしている(これは既述のように問題設定からの論理的必然)、という点だ。

次のようにも表現できる。
例えば、能見説では、B型性格特性はB型血液型に固有なものではありえない。つまり、能見氏はそれをB型性格特性であるということすら主張していなかったというのが実情なのだ。他の血液型の人だって25%の確率で「B型」性格特性をもつと主張しているのだ。なにしろ、性格特性は4つしかないんだからね。ということは、ニセ科学批判者も能見氏の巧妙な言説にまんまと騙されてしまったのではないか?
まさか、そんなことあるはずないですよね!


以前にNATROMさんが菊池誠先生の言葉として引用してくれたものに↓のようなものがありました。
『能見説は「個人の性質は論じられないほど、弱い関連」の話などではないはずですよね。その程度のことなら、なんの役にも立ちませんから、あんなにたくさんの本を書いたってしょうがない。 』
今にして思えば、それは菊池誠先生の先入観(思い込み、恣意的な決め付け)に過ぎなかったのではないでしょうか。能見説に強弱を定義すること自体がナンセンスだったことは繰りかえし既述したとおりです。ニセ科学批判者(菊池グループ)は錯覚ゲームとしての娯楽的役割を過小評価ないしは看過しただけです。もう一つの理由は、強弱の基準を明確に定義しようとしなかったという、物理学者らしからぬ態度をこの場面では採用してしまった、ということが仇となったのではないでしょうか。

B型のひとの25%はもしかすると、ひとくくりにされたB型性格特性をもっているかもしれない。しかし、同等の確率でA型性格特性を備えているかもしれない、、、そういうことですよね?能見氏の主張というのは。

で、前者のひとは能見式血液型人間学がかなりあたってそうな気がするし、後者のひとはまるでかほとんどか知らないがあたらないんじゃないのと思う。そこにも、娯楽の席であれこれ他愛もない素人談義をして楽しむ余地が与えられている。

そのほかにもいろいろな楽しみ方があるけれど、要は、能見式血液型人間学は一つの娯楽という側面が非常に強い。もちろん、人々が娯楽として楽しむことは、人々の自由なのです。この遊びの自由にニセ科学批判者がよってたかって(という印象を受けるんですが)介入しようとするから、煙たがられるのだ、と私は思います。この「遊び」において、ひとびとは、その結論が科学的に正しいか間違っているか、ということは二の次なんじゃないでしょうか。なんとなく当たってそう、でも、パーフェクトにはあたらない、そこも面白さを感じさせる一つのポイントじゃないでしょうか。

前回のコメントを引用しますと、『ステレオタイプなんてありえないわけで、、、だからこそ、それを常識化している人々の間では、ステレオタイプ的な貼り付けが遊びになるわけです。』 という感覚は、NATROMさんは理解できないのでしょうか。多分、理解できない、というのが回答だと思うのですが(隅々まで嫌っているらしいので)、そうすると、問題は、「知」の領域ではありませんよ。知情意でいえば、情の世界の問題です。

この情を理解できていないという自覚がない限り、菊池誠先生の上述のレジュメにあるように「残念ながらニセ科学研究者も信奉者も説得はできない。 ニセ科学批判は、まだニセ科学に道に踏み込んでいない人々への教育のためと考えるべきなのだろう 」という無念をにじませた自虐的な結論になってしまう、と私は考えるのです。信奉者は今の場合、血液型人間学で遊ぶひとです。この遊びに対して、科学の言説をもって「説得」しようたって、初めから無駄。いかにも無粋なだけなのです。

もちろん、能見式血液型人間学の差別主義的な部分については、どうしても排斥する必要がありますが、これは本来、ニセ科学批判の領分ではないでしょう。別にやっても構わないですが、ニセ科学批判というネーミングとは外れすぎた課題ではないか、というのが私の考えです。

差別主義が問題になるのは、それがニセ科学的命題に則っていようと科学的真実に依拠していようと関係ないはずですからね。というよりも、むしろ優生学のように科学的真実に依拠していたほうがよっぽどたちが悪いのです。ニセ科学批判という「看板」で差別主義と戦おうとすると、例えば、優生学には目を瞑るというのが論理的結論になってしまいます。あくまでも、その「看板」なら、ということですが。

*****************
↓はまた今度ね。
(4)連鎖と連鎖不平衡の関係性について、或いは素人と専門家の関係性について
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.12(月) 17:17 | URL | コメント:編集

●能見親子の著作を読んだことがおありでしょうか?

>「科学的に否定された」と主張するニセ科学批判者は一人もいないはずで、
>いないのに私のように主張するのは「架空の藁人形」を攻撃しているようだ、ということでしたね?

「一人もいないはず」とは言ってはいません。今回は、菊池誠『「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)』から引用されていますので、euglena00さんによる批判が、ただのくだらないイチャモンなのか、それともニセ科学批判の問題点の適切な指摘なのか、読者が判断できます。


>血液型「だけ」で分かるのが四分の一とすれば、血液型を能見式血液型人間学で言い当てられる確率は四分の一。血液型四つが均等に分布する集団を作ると、正四面体のさいころ(偶然)によって血液型を言い当てる確率も四分の一。これって、何?とても控えめな主張と言うか、何も主張していないに等しいとしか考えられないのですが、、、僕の計算、間違っていますか?

間違っています。euglena00さんがどのへんでつまずいているのかを明確にできただけ、満足しています。euglena00さんの論理だと、「ABO血液型が関連するのは性格の1%である」場合、血液型を言い当てられる確率が1%ということになりますね。


>能見氏の一節で今回明らかになった(と私が思っている)点からすると、既述のように、的中率の強弱について能見式血液型人間学については定義できない、というのが私の見解です。

能見氏の主張が正しければ、適切な質問をすることで、偶然で言い当てるより高い確率で血液型を的中させることができます。なので、やろうと思えば検証可能です。というか、血液型を的中させることではなく、血液型別に質問の回答率の差があるかどうかという形ですが、検証されて、否定されたんです。きくち先生はレジュメでそのことを言っているのです。

一つ疑問に感じたのですが、euglena00さんは能見親子の著作を読んだことがおありでしょうか?一冊でもお読みであれば陥ることのないような誤解(たとえば「B型のひとの25%はもしかすると、ひとくくりにされたB型性格特性をもっているかもしれない。しかし、同等の確率でA型性格特性を備えているかもしれない、、、そういうことですよね?能見氏の主張というのは」)をしているように見えるのですが。
NATROM | 2012.03.13(火) 12:36 | URL | コメント:編集

●勘違いのお詫びと訂正など

NATROMさん、コメント有難うございます。

(2)能見式血液型人間学の的中率
(3)娯楽としての能見式血液型人間学
3月12日付けの↑二つのコメントでは、とんだ早とちりをしてしまいました。お詫び申し上げます。

A. 勘違いと早とちり

「血液型でわかるのは性格のうちの四分の一ですよ」 という能見氏のフレーズについて、大いなる誤解をしてしまいました。

ABOFANさんのサイト
http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/relation.htm
では、先にNATROMさんに転載してもらったフレーズの前の文章↓が載っており、それを読んで誤解を悟りました。でも、能見説についての理解はますます遠くなった感じですけどね。
…私は次のたとえ話をする。
 人間を仮に野菜だとする。八百屋というくらいだから、野菜には八百ぐらいの種類があるのだろう。人間の個性だって、八百ではきかないくらい、沢山の野菜の種類がある。

その中でのO型の人はナマ野菜に相当する。ナマだけに個性の差が一番あるのがO型である。

その野菜を、今、ツケ物にしたと仮定する。ツケものにしても大根、キューリ、ナス、白菜等々、それぞれのの個性はちゃんと残っている。見ても判るし食べても判る。違うのはツケ物という共通性が加わっていることだ。その共通性がA気質なのである。

B型はおでんでも煮〆(にし)めでもいいから、野菜を煮たとする。A型と同じ考え方で、それぞれの野菜の個性は残りながら、新しく加わった煮物という共通性がB気質というわけだ。

AB型は煮てツケるからややこしい。さしづめ福神漬。福神漬でもよく見れば、キューリかナタ豆かの区別は、つくのである。


野菜の話ならそれはそれで意味が通じるのだが、この比喩をどのように性格へ翻訳するのか、、、相当に難しいと思う。性格形成に対する独特の解釈でしょう?素材にあたる部分75%が性格特性としては具体的に何を表しているか言明を避けているし、↑の比喩ではそれが血液型決定部分の土台となるという形にしてある。

それが性格形成に関する私の理解とは逆転していて余計に理解不能なのだ;性格形成の私の理解は、まず遺伝的素質によって決まる「ぼわーん」とした「可塑性を十分にもった」パーソナリティの原型があり、それが胎内と生後の体験を通じてだんだんと「はっきり」として「可塑性の低くなった」形になっていく、というものだ。

能見説コアに対する現時点での私の解釈は次の通りです。
ひとの性格のうち25%部分は血液型で決定論的にステレオタイプ化される。
しかし、この部分と「素材」にあたる部分の次元が区別されている(調理法と素材)(同じ性格要素ではあるがお互いに異質なものとして区別されている)という点で、同じ量を割り当てること(今の場合、比率化可能とみなすこと)にそもそも矛盾をきたしているのではないか。しかも、性格要素が四類型の中に出尽くされている(彼の性格四類型で記述されている「要素」の集合を考えると、ひとの性格要素の集合と基本的に一致する)ように見える。このようにとらえると、「25%」
には実質的な意味がない(議論できない)と判断せざるを得ないのではないか。

いずれにせよ、問題にしている性格特性の25%部分については、血液型によって決定論的に(100%確率で)決まる、と彼は主張している(ここが誤解した部分だな)。(能見氏の)論理上は、この部分についてのみの性格四類型だし、彼自身も(その他の箇所では)具体的にはこの部分が性格のすべてを代表しているかのように記述しているはずだし、そういう形(血液型性格特性が性格のすべて)でしか世間には伝わっていないように思う。

さて、前回、私がどのように誤解したかというと、
①性格特性は四つのステレオタイプ(血液型性格特性)に「尽きる」と能見氏が主張した
②そのうえで、血液型による性格決定率が25%ほどであると能見氏が主張した
③したがって、(ここは早とちりの計算をしてしまったわけだが)A型のひとは25%確率でA型性格特性になり、75%確率でその他の血液型性格特性になる。
というように解釈してしまったわけだ。

①②の誤解はそのままに、③を修正した計算をしておきます。
血液型以外による決定率は75%ほどであるから、この要因によって例えばA型のひとにA型特性が備わる確率はその四分の一(19%)ほどになるし、それ以外の性格特性になる確率は56%だ(この部分を前回は見逃してしまった)。

これにA型という血液型によってA型特性になる確率を加えると、このひとがA型性格特性になる確率は44%になり、B型性格特性、O型性格特性、AB型性格特性になる確率は約19%ずつのまま。このことは他の血液型のひとにもあてはまる。だから的中率はほぼ50%ということになる。あくまでも①②の誤解に基づいた話だよ。

しかし(現段階での私の理解によると)、能見氏によれば、25%部分については、血液型による的中率は100%である。なので、A型のひとは必ずA型性格特性になる、と彼は主張している。しかし、的中しない場合も多い(A型であろうとO型的性格傾向を示す人々も多い)のが現実であることを考慮して、「血液型でわかるのは性格のうちの四分の一ですよ」という逃げを打ったのだろう、と思う(あくまでも、ありうる可能性の一つとしての想像ですよ)。

B.二つの強弱基準 その1

いずれにせよ、この話題の本来の趣旨は菊池誠グループの「強弱」の基準はどこに設定してあるのか、というNATROMさんへの質問であった。これに対しNATROMさんが、『「強弱の尺度」については、たとえば能見正比古は血液型人間学という本で以下のように述べています。 』と回答してくれたので、僕はその線で考えてみて(上述の経緯で)誤解してしまったわけだ。彼はここで「強弱」みたいなことを「まじめに」言っているようであるのだが、、、結局のところ、僕にはどういう意味か理解できないのが現状だ。

NATROMさんは、僕の質問に答える形で引用してくれたのだから、なにがしか理解していると思うので、それを開陳してくれたら嬉しいのですが。

それとは別に、今回、NATROMさんは次のように間接的に(?)答えてくれた。
『能見氏の主張が正しければ、適切な質問をすることで、偶然で言い当てるより高い確率で血液型を的中させることができます。なので、やろうと思えば検証可能 です。というか、血液型を的中させることではなく、血液型別に質問の回答率の差があるかどうかという形ですが、検証されて、否定されたんです。きくち先生 はレジュメでそのことを言っているのです。』

偶然より高い的中率を「強」、偶然と同じ程度を「弱」。
これを菊池誠グループの強弱の基準の一つと考えてよろしいでしょうか。これは極めてわかりやすい基準で、黒白を判定できる基準だと思います。
でも、この形では実際に検証はしていない、ということをNATROMさんはおっしゃっていますね?
なので、この部分については、なんとも言えない、というのが科学からの現段階での結論だと思います。

ついでに、オール・ザット・血液型(佐藤達哉・渡邊芳之、1996)から引用しておきます。
「当てられる」という人を集めてほんとに当たるか実験した心理学者がいるけど、平均すると的中率はチャンスレベル以下だった。やっぱり当たってないんだよね。でも、ひとりだけ5割以上も当てた人がいるんだそうで、これは謎のまま。何か別の手がかりを使って当てたんだと思うけど、時々そういう人もいるから不思議。この世にはまだわからないことがたくさんある。

この一節によると、なんか能見説も善戦しているような印象を受けます。
一つは、チャンスレベル以下の的中率。これは実験が不十分なのじゃないかなぁ、と予想させる。もう一つは、例によって例外の存在ね。ただ、例外とはいえないような表現(「時々そういう人もいる」)でもある。あと、「何か別の手がかり」という理由をあげているけど、血液型固有の生理学的特徴(性格とは関係ないという意味ね)って知覚できるのかな?まぁ、面白い実験ではある。

どういう実験をしたのかとても興味ありますね。この種の実験を本当に意味あるものにするためには、自称でもいいですが、的中率30 %(日本人の血液型分布による偶然的中率)以上の経験者を十分に集めること、テスト会場においては血液型や性格を問う会話はもちろん全面禁止にしたうえで、互いに十分にコミュニケーションする機会が与えられていないといけません。もちろん、互いに面識があったひとはいけません。これを、、コミュニケーション時間を横軸にとって的中率をプロットすると面白い:もちろん、ほんとは的中しないものだったら、、、面白くもなんともないデータにはなりますけど、血液型性格判断はあてにならないことの証拠にはなる。

因みに、『euglena00さんの論理だと、「ABO血液型が関連するのは性格の1%である」場合、血液型を言い当てられる確率が1%ということになりますね。 』についてですが、
前回の私の誤解に基づいていたとしても、その確率は25%です。偶然確率より低い確率は考えられませんから(十分な試行回数を行うという前提で)。

C.二つの強弱基準 その2

さて、『血液型別に質問の回答率の差があるかどうかという形ですが、検証されて、否定されたんです』という研究がいっぱい(?)あるといわれていることは知っております。ここでは、能見説(の何か)が否定された、とおっしゃているのでしょうか?

菊池誠『「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)』(2003/2/17)
http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html
で該当部分を引用させてもらいます。

よく訊かれる質問:「心理学のアンケート調査では関連が見つからなくても、実は微かな関係
がある可能性は否定できないのではないか」それはその通りで、よくよく調べると弱い相関があるということになるかもしれない。それ自体は、科学の問題として意味がある。しかし、血液型性格判断はそのような微妙な関係のことを言っているのではないことに注意。上の質問は血液型性格判断とはなんの関係もない。もっとも、測定限界ぎりぎりで話をしなくてはならないとすれば、それはラングミュアのいう「病的科学」の兆候でもある。


このレジュメに依拠する限り、強弱の基準は心理学研究における統計学にありますね。

これまでの心理学アンケート(質問内容の質x被験者数の規模)で有意差がでる程度を「強」、出ないものを「弱」という形で強弱を(暗黙に)定義しているようです。同時に、能見説はこの基準で「強」であることを主張している、と菊池誠先生は(暗黙に)定義している。もう一つの前提としては、能見説を検証するに当たり、「心理学アンケート」の質問内容は充分に適当であったしサンプル数も十分であった、という判定が入っています(前回もコメントしたようにこのデータベースに満幅の信頼を寄せている)。以上、少なくともこの三つの前提の枠組みの中では、確かに「能見説における関係性は統計学的に有意な差がない、したがって能見説は正しいとは言えない(判断を保留する)」という結論が導かれると思います。

能見説を検証するための帰無仮説は否定されなかった。この結論が正しいとして、さらにここから能見説が否定されたという結論を導くための論理を明示的に説明していただけると、統計学や論理学については素人の私には有難いです。

D.これまでの心理学研究は充分に信頼性のあるものだったのか。


NATROMさんの前回のコメントでは、この部分に対する明示的な回答はなかったようです。
しかし、能見説を検証にかけ、「否定された」と、NATROMさんは暗示的に回答してくれました。つまり、心理学研究の信頼性は保証できる、ということだと思います。

Hobgood仮説の場合には、原典にまであたってその不備をご指摘していただき、誠に有難く感謝しております;後日、コメントします。なので、国内心理学研究についても、原典を丹念に分析したのだろう、と拝察しているところです。

しかしながら、渡邊宏之氏の次の文章を読むと、???、となります。
ABOFANさんのページから転載します。
http://www010.upp.so-net.ne.jp/abofan/sekinin.htm

渡邊芳之さんは、全く反対の主張をしているようです(性格心理学は血液型性格関連説を否定できるか~性格心理学から見た血液型と性格の関係への疑義 『現代のエスプリ~血液型と性格』 188~191ページ)。
 これまで何人かの心理学者が、 血液型と性格との関連を実証的方法で反証し、血液型性格関連説を否定しようとしてきた。ここで注目されるのは、彼らが血液型性格関連説を「科学的方法に よって反証可能な理論」、すなわち科学的理論とみなしていることである。この点でそれを「非科学的な迷信」とみなして無視した従来の心理学者とは異なる。
 しかし、論文を一読すればわかるように、彼らの多くは「血液型性格関連説は間違っている」というアプリオリな立場を持っており、それを実証するために研究を行なっていることもまた確かである。

この論説が発表されたのが1994年ということのようですから、菊池誠先生やNATROMさんが言及している心理学研究というのは、1994年~2002年にかけて行われたバイアスのかかっていない(かもしれない)研究のことなのでしょうか?その場合、関与した心理学研究者の多くは「バイアス」を反省したのか、あるいは、全く別のもともと「バイアス」のかかっていない研究者があらたに研究したのか、とても興味あるところです。この点についてNATROMさんのご教示を頂ければとても嬉しいです。

E. 能見親子の著作

えっと、『能見親子の著作を読んだことが 』あるかですか?。ありますよ。ただし、前回チラッと述べたように『むか~し、一度読んだだけで 何の記憶も残っていませんが 』という程度にですが。もちろん、A型のひとはA型的性格傾向にしかならない、というように読んだし、ずっとそういう主張だと思っておりました。「血液型でわかるのは性格のうちの四分の一ですよ」 という能見氏のフレーズを前回コメントを書く際に考察するまでは、ですが。

F. 能見説のコア(もう一度)

なお、能見説のコアは、ひとの性格は血液型でステレオタイプ的に決まる、というのが私の理解です。このコア部分を否定するためには反例を一つ提示するだけで十分ではないでしょうか。実は、能見氏が提供するデータのすべてがステレオタイプを否定している、と私は考えているのです。例えば、歴代首相にはO型の人物が多いというデータも、それ以外の血液型の首相の実在(という反例)により、リーダー的性格(なるものがあったとして)がO型固有のものであるというステレオタイプ的な能見説を否定しているように思うのです。この私の理解は間違っていますか?

因みに、例の「25%」を組み込むと、能見説のコアは、ひとの性格のうち25%部分は血液型で決定論的にステレオタイプ化される、ということになります。しかし、この部分と「素材」にあたる部分の次元が区別されているため(調理法と素材)同じ量を割り当てること(今の場合、比率で評価すること)に矛盾をきたすと思います。しかも、上述のように、性格要素が四類型の中に出尽くされている。なので、議論出来ない命題ではないか、としか考えられないのです。

いずれにしても、ステレオタイプというのはある意味、面白いですね。
A型なのに、A型的性格特性とされている性格をもっていない人は必ずいる、というのが世間常識(日常的経験知といってもいいと思うけど)だと思うのですが、、、そうすると、このひとは何型性格なの?まぁ、こうした頼りなさというかいい加減さが、あてっこゲームと普通はとられている能見説のコアでないでしょうか。前回もこのことは述べたように思うけれど。

言い換えると、能見式血液型人間学を「科学を装った」科学でないもの、つまりニセ科学、としてNATOMさんたちは攻撃しているけれども、批判しなくてはならないと判断する根拠はそれが「科学(的真実)として受け取られてはいけない」という理念ですよね?とすると、ニセ科学の唱道者が科学を装っていようがいまいが、その「信奉者」がそれを科学的真実として受け入れているのでない限り、「肩すかし」みたいなものではありませんか?一人相撲をとっているとか。

で、現実はというと、すでに何度も述べてきたと思いますが、少なくとも50%(まぁ半信半疑といったところか)以上の信頼度で信用している人はそう多くはない、と想定するのが私には妥当であるように思われるのです。科学として受け入れているような人に遭遇したことは一度もない、という私自身の日常的な経験から、そのように受けとったひとびとは、いたとしてもほんの一握りなのではないか、という想像をめぐらしているわけです。あくまで想像ですよ。

一方、その少数の信奉者(が、血液型性格判断にいるとして)に対しては菊池グループは諦めている。この少数はいわば盲信者でしょうから、もともと科学とは全く無縁の人々なのでしょう。血液型性格判断が科学的真実であるからという理由で盲信しているわけではなく、憑りつかれている。

他方、科学的批判が有効な人々は、血液型性格判断を本当は信頼していない。「遊び」のひとつ、とみなしているだけ。前回、「無粋」と控えめに表現しましたが、もう少し本質的に表現すると「科学でなくてはいけない」と信じている文化による「ここは子供だましの科学っぽいゲーム」の文化に対する攻撃、ってところかな。「・・・」文化の・・・は気にしないでね。言いたいことは、互いに異文化の世界だ、という点なのです。

とまぁ、こんなことを考えている次第です。あくまでも、能見説の科学的側面(血液型と性格の関連性に関する能見説)についての話ね。

G.おわりに

行きがかり上、ちと深みにはまってしまったようですが、私は能見説それ自身にはあまり興味ないのですよ。
一番に問題にすべきは、血液型とパーソナリティ(1)
http://euglena00.blog.fc2.com/blog-entry-40.html
で述べたとおり、差別主義ね。でも、その前にもっと重要になるのは、この差別主義と極めて親和性の高いと思われる「愚民化政策」と表現した事柄に対する対策です。

なお、僕のつまづきを明確にできてNATROMさんには少なからずご満足いただけたようで、なによりです。僕がしなくては「いけない」とNATROMさんがご指摘の点についても、「いやいや」ですが(冗談ですよ)したつもりであります。

今回のコミュニケーションで菊池誠グループによる「否定したい」という強い情念が伝わってきたことは確かなのですが、なぜそれほどまでの強い情念をもつのだろうか、という新たな疑問も生まれました。NATROMさんの場合はどうなのでしょうか。

ネット探索すると、随分と幅広い領域に発言されているので、NATROMさんには専門のお仕事以外の時間がいっぱいあるような印象を受けました。僕のような凡人の頭脳からみたに過ぎない印象なので、知能の高いNATROMさんからすると、まだまだ十分に時間の余裕を感じられるのでしょうけれどね。羨ましいですよ。ただ、一般論として考えると、診療自体は勤務時間内のものでしょうけれど、この診療に関連した研究は「原理的に」際限がないと考えられるものですから、それ以外にこれだけのエネルギーを割けるというのはスーパー頭脳ですよ(冗談抜きに)。

なお、強弱の基準がいまだに明示的、直接的に呈示されていないのは残念です:25%についてのNATROMさんのご教示、楽しみに待っています。菊池誠先生やNATROMさんが依拠した心理学研究の信頼度や秀逸性についてのご説明も、もちろん楽しみにしていますので、よろしくお願いいたします。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.19(月) 16:09 | URL | コメント:編集

●(4)連鎖と連鎖不平衡の関係性について、或いは素人と専門家の関係性について

『さて、本題の連鎖と連鎖不平衡ですが、私はこの点に関しては全くの素人なのでNATROMさんのご教示をお願いしたいところです。 』と3月9日のコメント(連鎖と連鎖不平衡との関連を教えて )で、NATROMさんにお願いいたしました。

それらしきご回答は同日のコメント(連鎖と連鎖不平衡 )での『連鎖していても連鎖不平衡にない関係の遺伝子座の組み合わせなどごまんとあります。ABO遺伝子座とDBH遺伝子座が連鎖不平衡の関係にあるのを示すには、連鎖の情報だけではまったく不十分です。 』あたりでしょうか。

素人としての私の素朴な疑問は、より具体的に表現すると、ABO遺伝子とDBH遺伝子との間に強い連鎖(組換え率0.0、LOD≒5)があるならば、両者は一緒に伝達される確率が極めて高い(有効桁の問題がありますが、組換え率0.0ですからね)ので連鎖不平衡を問題にしなくてもよいのではないか、というものでした。前回、このように明示的には表現しなかったのは、私がこの分野の素人であるということをお伝えしてあったので、素人が連鎖と連鎖不平衡との関係についてどこを理解しないのか、ということは専門家は理解しているだろうな、と思ったからでした。

今回のNATROMさんのコメントには、『連鎖と連鎖不平衡の区別がつかずにDBH遺伝子座を介したABO血液型遺伝子座と性格の関係に論じるのって』『ただの痛い子です。』というようなことが書いてあります。

参ったなぁ。苛めないでよ。

まぁ、ちゃんと勉強して出直しておいで、という親心なのでしょう。

遺伝統計学って難しいですね。テンソル解析よりはずっとやさしいんだろうという感じではありますが。ネット上のさまざまな講義・解説でも、連鎖不平衡の意味は結構記載してあるのですが、今回の場合におけるような二つの遺伝子座の関連を論じるに当り、何故、連鎖不平衡でなくてはいけないのか、、、初歩的なことがちっとも説明してありません。まずは、日本語のサイトを探したのですが、僕にはちと専門的過ぎる感じがしました。

で、英語ならどうか、と探してみたら、すぐ目的の文書にたどり着けました。
連鎖と連鎖不平衡の関係の一部については 
Basics of Linkage and Gene Mapping
http://www.animalgenome.org/edu/QTL/Julius_notes/05_linkagemap.PDF
に易しい解説が記載されており、何となく理解した気持ちでいます。

その一部を引用しておきますね。
Linkage disequilibrium is somewhat a confusing term. (う~ん、誤解しやすいということですね、なるほど、親切な記述ですね!NATROMさんもこれ位に親切だといいんですけど)It can be the result of physical linkage of genes. However, even if the genes are on different chromosomes, there can be linkage disequilibrium. This can be due to selection. (中略) Linkage disequilibrium can also be the result of crossing or migration. (中略) But ultimately, even if the distance between two genes is less than 1 cM, genes will become in linkage equilibrium (with no selection). (後略)
文章も平易で、論旨も明快。以下、この解説が正しい、という前提で論じます;ので、この前提が間違っていたらごめんなさい。

↑の解説に従えば、連鎖と連鎖不平衡は一対一の包含関係にはなっていないので、
『強い連鎖は連鎖不平衡の必要条件であって十分条件ではありません。』
というNATROMさんの言明は正しくないように思うのですが、、、必要十分の関係は一対一の包含関係を表していない場合にも使うのでしょうか?「連鎖と関係する」連鎖不平衡においては、という条件がついていればもちろん包含関係になりますけど。

また、NATROMさんは、Hobgoodが件の論文で「嘘」をついたとして『事実関係に嘘を書くのはダメです。』と断罪しました。科学の学術誌には、たくさんの誤解などが紛れ込んでいることはNATROMさんも重々ご承知のことかと思います。なかには、牽強付会もあります。しかし、「嘘」という言葉は、当事者の意志を前提にして初めて言えることです(僕のボキャブラリーとしては、ですが)。「誤り」は、客観的な事実を指す言葉ですが、「嘘」は「誤り」を作為した場合にのみ用いるものと思います。私には、Hobgoodにそのような作為があったかどうか判断できる材料はひとつもないのですが、NATROMさんは判断できると言うことなのでしょうか?

もちろん、嘘と誤りの語感には個人差があるでしょうが、嘘をつくtell a lie、誤るmistake (or make an error) というのが僕の印象です。嘘つきは泥棒の始まりとか、嘘も方便という言葉があるように、どうしても「嘘」には意図性がまつわりついているものと感ぜられるのです。

さて、話を戻します。『私の所属する研究室の日本人集団のデータでも300 kbを超えた連鎖不平衡はきわめて例外的です 』 に対する、NATROMさんの説明は、この例外は、『多くのデータがあれば必然的に生じる偏りで説明可能なものです。 』と言うものでしたね。これについて、私は「例外」という言葉の誤用ではないか、と疑義をはさんだのですが、どのようにお考えですか?

「必然的に生じる偏り」は、同じ集団(量的な差があるだけの集団)内部の極端をさす言葉であり、例外とはこの集団とは異質な集団に属すると考えられる事例を表します。
いずれにせよ、連鎖不平衡は「連鎖」する場合に限って起こるものではないとすると、不思議ではないということ自体は納得です。

でも、「例外」を偏りで説明できるとNATROMさんはおっしゃいましたが、本当は違うんですよね?NATROMさんが手中にしていた例外は、本当は例外でも偏りでもなんでもなく、連鎖以外に(自然淘汰や民族移入などに)起因するものとして充分に説明可能な連鎖不平衡であったわけです。

さらに、NATROMさんが、やはりこの分野では素人であるABOFANさんへの説明で『300 kb以上も離れた位置にあるDBH遺伝子とABO式血液型の遺伝子が強い連鎖不平衡あるとすれば、私にとってはそっちのほうが不思議です 』としたことは、血液型とパーソナリティ(4)で引用しました。

でも、連鎖不平衡が別の染色体間でも起こりうるという可能性(上述のBasics of Linkage and Gene Mappingによる解説)があるとすれば、不思議でもなんでもないですよね?

以上、NATROMさんの言説とBasicsの説明には大きな矛盾があることは確かです。可能性としては少なくとも四つ考えられます。(1)誤認、(2)ケアレスミス、(3)嘘、(4)Basics of Linkage and Gene Mappingの説明の誤り。ただ、私としては(4)は余りありえない、というようには思っています:件の解説部分に納得できるので。

というわけで、NATROMさんがスーパー頭脳であるとしても万能ではない、と考えるのも自然なことなので(1)と(2)も可能性として考えてはみたのですが、この分野における初歩中の初歩の知識のようだから(3)がもっともありうるかな、と勝手に想像しています。ま、ここは勝手な想像の部分だから気にしないでね:人のことを嘘つきというひとが、嘘を平気でつくだろうか、なんてことも考えたりもしましたよ。でも、間違い見つけるのとてもお上手のようだから(1)(2)はやはりないんだろうし、、、どうなってんだろう、、、って逡巡している感じです。

さて、Hobgood仮説の最大の論拠はABO遺伝子とDBH遺伝子の連鎖不平衡(と、彼女が誤認した事実)であることは間違いないでしょう;彼女の依拠したWilson論文は連鎖不平衡のものでないことはNATROMさんのおかげで私も知ることとなり、たいへん感謝しております。誠に有難うございます。いったんは胸が躍ったわけなので、とても残念ではありますけれど、しょうがないですね。

ただ、同時にその連鎖不平衡の可能性を示唆するさまざまな状況証拠も参照、提示しているように見えます。そうしたものに個人体験みたいなのもあり、それはどうかなとさすがに思いましたが、その他の状況証拠についてはチェックしていません。NATROMさんはチェックされましたか?いずれにせよ、仮説は仮説です。なお、Medical Hypothesisは査読付きの学術誌です。証拠がまだ断片的なもの、、、云々なるAims & Scopesでの記述がありました。

後日、彼女の仮説を和訳した部分について、連鎖不平衡については彼女の誤認であった旨、追記表示したいと思います。また、もしNATROMさんが、彼女の提示したその他の状況証拠も、状況証拠とは言えないと断定できるものがあり「我慢ならない」とおっしゃるのであれば、例えば、主として何件の状況証拠が挙げられ、そのうちの、これとあれとは事実に反するものだ、という形で注記を出したいと思います。
一生物学徒の社会勉強 | 2012.03.19(月) 18:26 | URL | コメント:編集

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